何かが道をやってくる

管理人:平井宏樹

マクマーティン保育園裁判(The McMartin Preschool Trial)

1984年から1990年にかけて、アメリカのカリフォルニア州で行われた刑事裁判。ただし証拠不十分として容疑者は全員無罪となり、史上最長の刑事裁判であり史上最大の冤罪事件となった。

 

事件の概略をまずは述べる。「マクマーティン」というのは起訴された園長の姓で、他に6名の保育士が性的虐待の告発を受けた。最初の告発(こちらも後ほど荒唐無稽な内容と判明)があった後、同様の被害報告が300件以上も、子どもたちを通じて相次いで上がる。当時、託児所や保育園に子どもを預ける家庭が増えていたこともあり、全米規模で保育所に対する疑念が向けられた。
後に子どもたちにカウンセリングを行ったセラピストによる誘導尋問や、検察による証拠隠滅の疑惑が判明し、最終的には全員の無罪が確定するのだが、被疑者たちが被った被害は大きく、度重なる裁判費用などにより身を滅ぼした方もいる。さらに近隣の無関係な保育所が閉園したことも考えると、被害規模は想像を絶する。何とも報われない事件である。

 

この事件の詳細を調べるため、『マクマーチン裁判の深層』(北大路書房)を読んだが、読めば読むほど何ともやるせない気持ちだ。告発の内容は、いわゆる「悪魔的儀式虐待(SRA)」と言われるもので、荒唐無稽と言われても仕方ないものだが、なぜそれが明らかになるまでにこれほどの被害者が出てしまったのか。
個人的に最も報われないと感じたのは、カウンセリングを受けた子どもたちのことである。彼ら、彼女らにとっては恐らく暗示も多分に入っているとはいえ、今ある記憶だけが頼りだ。なので、事件から30年以上経った今でも被疑者を許せないという方もいるという。
現時点では「証拠不十分」というだけで、潔白が晴れたわけではない。この事件では証拠がいくつもでっち上げられ、今後もそうしたことが無いとは限らない。一度生まれた疑惑を払拭するのは実に難しいと感じる。とはいえ、存在しない記憶を根拠に誰かを憎み続けているなら、こんなに虚しいことも無いだろう。

 

エリザベス・ロフタス(Elizabeth Loftus)氏の著書『抑圧された記憶の神話』(共同執筆:K.ケッチャム 訳:仲 真紀子 誠信書房)には次のように述べられている。

 


 科学者は、視覚システムによる空間内の事物や特徴の同定が、記憶の始まりだと考えている。知覚が生じた各々の箇所において、脳細胞は後の使用に備え、その印象を保持するよう指令を受ける。そうすると、細胞に特殊な物理的変化が起きる。また、海馬という小さな器官(脳の両側に一つずつ、計二つある)が、これらの分割された箇所をリンクし、広範な感覚を一つの体験として統合する。これが記憶として刷り込まれるのだ。特定の記憶が検索されるたびに、脳細胞間のコネクションは強化される。
 つまり、脳は点在する神経上の箇所をつなぐ、何十万もの小さな重複しあう情報「ネット」で満たされている、と考えてよいだろう。特定の記憶の糸を引き上げれば、ネット全体が持ち上がり、それを取り巻く、何重にも重なる記憶もまた攪乱を被る。さらに複雑なことに、記憶という構造物は血液、化学物質、電気など、どちらかといえば捉えどころのない、うつろいやすい結合でできている。ネットがからまり、結び目ができ、複雑に入り組んだ素材がほつれや穴で破れてしまうこともあるだろう。心は壊れたところを修繕しようと頑張るが、常に腕の立つ几帳面なお針子になれるわけではない。(p111)

 


「抑圧」(Verdrängung)という言葉はフロイト以降、心理学の重要ワードであった。恐らく最初にこの語が言われた頃は、映像が脳内にそのまま格納されているようなイメージだったろうが、どうやら見たものが見たまま、記録されているという筋はなさそうだ。映像はデータが重く、そのままの形で残すのは脳のキャパシティを考えても恐らく難しい。
だが一方で、記憶が証拠としては不確かな場合があるということも、この事件を踏まえた上でよくよく意識すべきだろう。事件の発端から最後まで一貫し証拠不十分と結論は出ても、被疑者の方々は未だに「推定無罪」の名を着せられ、他の犯人でも見つからぬ限りその撤回は難しい(犯人がいない犯罪の場合はどうすればいいのだろう)。結局証拠が全て泡のように消え、かといって疑いが晴れることもなく、繰り返すが何ともやるせない事件である。

 

 

参考

ja.wikipedia.org

en.wikipedia.org

www.kitaohji.com

www.seishinshobo.co.jp

www.famous-trials.com

聖変化

聖餐において、パンやブドウ酒がキリストの体と血に変化すること。

 

カトリック教会には「七つの秘跡」と呼ばれるものがあり、

 

・洗礼

・堅信

・結婚

・終油

・叙階

・聖餐

・悔悛

 

と分けられる。聖餐は秘蹟の中でも、食事に関するものであるだけに教徒の方々の中でも最も身近な部類に入るだろう。それゆえ多くの議論を巻き起こし、未だに決着がついていない部分もある。

 

出典として多く引かれるのが、聖書の以下の部分である。

 


感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体で
ある。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事
の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新し
い契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われ
ました。
( 『聖書 新共同訳』日本聖書協会、コリントの信徒への手紙1 11章24-25節 
Wikipediaより引用)

 


誰かと食事を共にすることは、現代においてもある種、契約に近い意味を指す。
日本でも「同じ釜の飯を食った仲」と言うし、これはある程度普遍的な感覚だろ
う。

だが、実際にパンとブドウ酒がキリストの肉となり血となるかというと、ど
うだろう。その点については様々な立場があるが、ここでは大きく分けて「化体説」「象徴説」「共在説」を紹介する。

 

「化体説」はシンプルに、秘蹟の力でパンやブドウ酒がそっくりそのまま、キリストの血肉となると主張するもので、カトリック教会やギリシア正教会がこの立場に立つ。
「象徴説」は、パンやブドウ酒はあくまでキリストの血肉の象徴でしかないが、秘蹟によってキリストの受難などを想起させる働きがあるとし、「想起説」とも呼ばれる。宗教革命を率いた一人、ツウィングリが主張したことで有名である。
「共在説」は複雑である。マルティン・ルターの提唱であるが、パンやブドウ酒
秘蹟を受けることにより、パンやブドウ酒であると同時にキリストの血肉にも
なるとする。同時に二つの存在になるということで、これが「共在説」の名前の
由来となっている。
「共在説」についてもう少し述べると、ルターの立場の背景には、聖書絶対主義
がある。聖書には、秘蹟によって変化するとも書かれていないし、象徴するとも
書かれていない。奇妙な説に思えるが、聖書の記述には恐らく最も誠実な立場である。量子力学で言われる「状態の重ね合わせ」を連想するが、そうした複雑な存在論が16世紀にあったというのは興味深い。ルターの立場に関しての一節を文献から引用し、ここでの注釈とする。

 

 

 ルターは聖餐のパンの中におけるキリストの実在を、この創造主である神の「内」や「充満」によって説明し、時には、制定語がなくても、キリストの体の遍在についての説明が可能であるかのようなことを言っているが、彼としては、別段、奇矯なことを言っているつもりはなく、聖書にしたがって、神の「内」や「充満」を言っているだけで、どこが悪いのか、エレミヤも言っているではないか、と言いたいところであろう。(中略)

 創造主なる神が全能の力をもって、現在、世界をくまなく、内からも、外からも、支配し、保持し、導いている。これがルターの確固たる信仰である。しかしその支配の仕方は一様ではなく、人間の目にもあらわではない。時には全く支配が行われていないと思われることもある。彼は同時性の論理によって遍在について「どこでも」(allenthalben)と共に「どこにもない」(nirgend)を繰り返し言う。神は遍在していると同時に、「どこにも存在しない」と言うことができるのである。

(『宗教改革者の聖餐論』赤木善光 教文館、p135)

 

 

ちなみにカトリック総本部、法王庁にはこうした秘蹟を科学的に調査する部署がある。聖変化の例でいえば、「パンがキリストの体に変化した」とする報告がいくつかあり、それに対して科学的に正しいと示したこともある。

ただ、フランシスコ教皇になって同様の報告があった際、法王庁はその秘蹟を科学的に否定したこともあり、盲目的に追認しているわけではない。現代的な合理主義も受け入れようという姿勢が見えて、法王庁の態度の変化を実感できる部分といえる。英語だが、詳細記事を参考に載せるので、興味があれば読んでほしい。

 

余談になるが、最近、藤木稟氏の小説『バチカン奇跡調査官』を大変面白く読んだ。探偵小説としての面白さを失わず、信仰と科学の葛藤という難しい課題に積極的に挑むのは度胸がある。主人公二人のキャラクターも分かりやすく、読みやすい。法王庁の科学調査がいかなるものか、もちろん潤色は多々あるだろうが、イメージするにはもってこいである。テレビアニメ等でご存知の方も多いだろうが、こちらもついでにオススメしておく。

 

 

参考

 

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

www.kyobunkwan.co.jp

ja.wikipedia.org

cruxnow.com

kadobun.jp

 

 

聖像破壊運動(イコノクラスム)

「聖像破壊」を、

1.信徒が、自身の宗教に属する聖像を破壊する
2.特定の宗教の信徒が、異教の聖像を破壊する

に分けて考える。

現代においては2のパターンがメジャーだろうが、1のパターンも忘れてはなら
ない。

 

2のパターンで多くの人がイメージするのは、例えば2001年にタリバンによって
破壊されたバミヤン渓谷の大仏などだろう。イスラム教の偶像崇拝禁止の規定に
反するとされ、仏教に属する聖像が破壊された。この行為に関しては、国際的な
諸組織だけでなく、イスラム教の内部からも大いに批判が寄せられた。

 

イスラム教やユダヤ教偶像崇拝の禁を堅く守り、仏教やヒンドゥー教は仏像を
作ることに抵抗は少ない。かつてのギリシアやローマのように、多神教世界で聖
像はよく作られる。
このように考えていくと、キリスト教の特殊さに気付くだろう。
一神教でありながら宗教画や聖像が積極的に作られ、深く浸透している。元々多
神教世界であったヨーロッパの地に東方からの文化が入り、複雑な過程を経て広
まった、その成立が関係しているのだろうか。
導入が長くなったが、要するに1のパターンの聖像破壊はキリスト教に多いよう
なのだ。

 

「イコノクラスム」というと、基本的には8~9世紀にかつての東ヨーロッパの大
国、ビザンツ帝国で起きた現象を指す。皇帝レオ3世により出された聖像禁止令
を端緒とする。いかんせん昔の話で、被害の規模はまだ良いとして、何をきっか
けにこうしたお触れが出されたかは分からない部分も多い。お触れが撤回された後、聖像禁止擁護派の記録が攻撃され、散逸したのだ。
キリスト教圏で恐らく最も大規模に聖像が破壊されたのは、宗教革命の時代だろ
う。その時代、聖像がどのように考えられたか、宗教革命を牽引した一人、カル
ヴァンの言葉を引用する。

 


 その一方で注意しなければならないのは、聖礼典の力を弱めてその用益を空し
くする人たちがいるのと同様、反対側には、そこに何か秘密の力が加えられてい
ると言う者が立っていることである。だが、聖礼典にそのような力が神によって
挿入されたとは、どこにも読むことができない。このような誤った教えによって
、無学で無知な人たちは、神の賜物を決して発見できないところに尋ね求めよと
教えられて、危険な欺きに遭い、知らず知らず神から引き離され、ついに神の真
理の変わりに紛いなき虚妄を抱くに至った。(中略)しかし信仰なしで受け取ら
れるサクラメントは、教会にとっての最も確かな破滅でなくて何であろう。約束
のないところには期待すべき何ものもなく、約束があるところには、信仰者に恵
みを掲示するに劣らず不信仰者を怒りによって怯えさせるから、神の言葉によっ
て差し出されたものを真の信仰をもって受け入れる以上の何ものかが聖礼典によ
って自分に渡されたと思う者は、間違っている。
(『キリスト教綱要改訳版 第4編』ジャン・カルヴァン=著 渡辺信夫=訳 
新教出版社、2009 p312-313)

 


ここでは聖礼典に関して述べているが、あくまで聖書の言葉を重視し、その他儀
式めいたものはそれに準ずるものと扱うべき、との姿勢が表れている。
旧約聖書には、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
」(出エジプト記:20-3)「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならな
い。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの
、どんな形をも造ってはならない。」(出エジプト記:20-4)とある。ユダヤ教
イスラム教はこうした教えを強く守っているのだ。
先ほども述べたが、キリスト教の根底にはギリシア・ローマの多神教文化があり、聖像を造る文化についても元は寛容であった。多神教一神教の緊張関係に意識を向けつつキリスト教史を眺めてみるのは、興味深い視点かもしれない。

 

日本は多神教のカラーが強く、偶像崇拝の禁については理解しにくい部分も多い。ユダヤ教の経典『タルムード』においては、性道徳の比喩を用いて旧約聖書を説明しており、たしかに性の文脈においてなら現代の日本でもその意味合いが把握しやすいだろう。たとえば、対象そのものでなく付属物に執着するというと、一種の性的フェティシズムがそれに該当するが、その性嗜好に対する是非は人により大いに分かれるだろう。

 

 

参考

 

ja.wikipedia.org

www.y-history.net

honto.jp

www.h-up.com

ja.wikipedia.org

 

忘却術

記憶術と対になる、特定の記憶を忘れる方法。

 

まず「忘却術」という用語については限られた場面でしか使われないため、ここ
での便宜上の呼び名である。

 

忘却術を歴史上最初に求めた人物は、古代ギリシアで活躍した指揮官テミストク
レスだろう。世界史にも登場するので名前を知っている人も多いかもしれない。
彼は故郷の住人の名前を全て覚えられるほど、記憶に長けていたという。同じ
く記憶に長けた人物シモニデスが記憶術を伝えようとすると、彼は「自分
が学びたいのは忘れたい記憶を忘れる方法だ」と言ったそうだ。

 

記憶術の本は多数あるが、忘却術についてまとめた本は(たぶん)無い。
そもそも忘れたい記憶を意識した時点で、忘れることからは遠ざかっている。そ
うしたわけで、忘却術には根本的に無理がある、というのがおおまかな見解のよ
うだ。シモニデスがテミストクレスにどう返したか、気になるがその記録も見つ
からない。

 

ただ、記憶術の歴史において、忘却が必要となる場面もあった。
西洋の記憶術は、基本的に場所と記憶とを結びつける。そうすると、別の知識を記憶するのに同じ場所を利用した場合、前の知識が邪魔になるという問題がある。その時に使える手法がいくつか紹介されている。一つ例を示す。

 


十六世紀末~十七世紀初頭の低地諸国やフランスで活躍した著名な記憶術師ラン
ベルト・トマス・シェンケル(羅:シェンケリウス)(一五四七―一六三〇年頃
)が紹介する手法は、いたって過激だ(Schenkelius 1610, pp.123-124. 
Bolzoni 1995, p.147も見よ)。いわく、ロクスのすべての窓や戸を開け放ち、そこに猛烈な勢いの「嵐」をぶつけて、暴風の力でイメージを吹き飛ばしてしまうのだという。記憶術を自在に扱えるほどの者なら、相当に強烈な風の場面も想像できるはずだ。風や雷鳴が生み出す轟音や、打ちつける冷たい水滴の触感なども、一緒に添えるとよいだろう。
講談社選書メチエ『記憶術全史 ムネモシュネの饗宴』 桑木野幸司 2018、
p87)

 

※ロクス…記憶に使用するための場所

 


上で引用した著書を読む限り、ロクスの明かりを暗くしたり、イメージにヴェー
ルをかけたりと、平和なものも多いが、イメージを破壊したりロクスから追放
したりと物騒なものの方が多い気がする。こうした手法が効果的かは定かでないが、「忘れる」ことに明確なイメージを提供してくれるのはありがたい。

 

現代ならば特定の記憶を忘れる手立てがあるのかというと、結論からいえば恐らく無い。ある記憶を忘れるためには、どうしても他の色んな記憶も巻き込まれてしまう。『奪われた記憶 記憶と忘却への旅』(ジョナサン・コット 訳:鈴木 晶 求龍堂、2007)には、ECT(electroconvulsive therapy、電気けいれん療法)の副作用で15年間の記憶を失った著者の嘆きが滲んでいる。記憶が引き起こす病の治療については、医療の問題に留まらぬ難しい課題である。

 

最後に、ウンベルト・エーコ(Umberto Eco 1932-2016)の考えを紹介する。1988年の論文において、自身の考えを表明している。論文の題名は、"An Ars Oblivionalis? Forget It!"(英訳:Marilyn Migiel)である。Ars Oblivionalisは忘却術を示すラテン語であるが、恐らくエーコの造語である。つまり「忘却術だって?そんなもの忘れろ!」となり、忘却術という方法自体の否定を示す。内容もタイトルの通りだが、忘却術の代わりに、記憶の上書き(superimposition)や増殖(multiplying presences)だったり、限定的な用法としてステガノグラフィー(古典的な情報隠蔽技術)の使用を挙げている(PMLA Volume103 Issue3 1988、p260)。

 

古代ローマにおいては、「記録抹消刑」というその名の通りの刑が存在したが、刑を受けた人物の一覧がウィキペディアにあるのは壮大な皮肉だ。やはり記憶は忘れようとすればするほど、かえって持ち上がるものなのか。エーコの言う通り、辛い記憶には楽しい記憶で「上書き」するのが一番真っ当で健康かもしれない。一方で、良い記憶にも嫌な記憶にも公平なインターネットにどう向き合うのが健康なのか、よく考える必要がある。ネットに一度流れた情報は二度と消すことができない。そんな時、「集団忘却術なるものがあれば」と考える人は少なくないだろう。

 


参考

 

ja.wikipedia.org

bookclub.kodansha.co.jp

www.kyuryudo.co.jp

ja.wikipedia.org

www.cambridge.org

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

honto.jp

ブルーノ、ジョルダーノ(Bruno、Giordano)

ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)は、イタリアの哲学者で、ドミニコ会の修道士でもあった。

 

世界史を履修した人なら、聞いたことがある名前かもしれない。地動説論者の一人として有名で、最期はカンポ・ディ・フィオーリ広場(Campo de'Fiori 通称「花の広場」)にて火刑に処された。
彼の宇宙論については、主著『無限、宇宙および諸世界について』(De l'infinito universo et mondi 1584 以下、『諸世界について』と略す)でおおむね知ることができる。1982年に岩波文庫より出版された、清水純一氏の訳が有名だろう。現在、加藤守通氏の訳による『ジョルダーノ・ブルーノ著作集』(東信堂)が刊行されている最中で、その他の書物についても日本語で読めるようになった。これから一部では注目を集めることになるのだろうか。

 

彼は宇宙が無限だと説く。地球は太陽の周りを公転しており、太陽と同じような恒星が宇宙には無限に存在し、そこには地球と同じような星も周っているとする。
「無限大の宇宙」と言ってもそうインパクトは無いだろうが、よく考えてみてほしい。宇宙が無限にあるということは、今あなたが何かしている、その瞬間が、宇宙のどこかでそっくりそのまま再現されているかもしれぬということだ。それはちょっと恐ろしいし、信じがたいことではないか?
ブルーノがどこまで考えたか分からないが、『諸世界について』を読む限り、恐らくそのような宇宙観も肯定していた可能性が高い。ブルーノの主張を代弁するフィロテオという人物が、「地球は無限に存在し、太陽も無限に存在し、エーテルもまた無限です。」(『諸世界について』、p98)と述べている。

 

彼の宇宙論に関しては多く紹介されているため、ここではややマイナーな、記憶術への貢献について少し触れることにする。
記憶術に関する書物を読むと、ブルーノの功績が重要なものとしてよく紹介されている。参考に概要が書かれた記事を載せるが、場所や占星術を使った記憶術について何冊か書いているそうだ。
現代においてもこれに類した記憶術(「場所法」と呼ばれる)は有効なようで、偶然観かけた『ミライモンスター』のメモリースポーツの回(2019年2月24日放送)において紹介されていた平田直也さんが、在籍する一橋大学井の頭公園の風景を記憶に役立てるシーンがあった。
ブルーノの宇宙論には誤りもあるだろうし、思想についてもオカルティックな部分があるため退けられる部分はあるだろうが、記憶術に関しては現代においても通用する部分があるのではないか。

 

上でも少し触れたが、彼は占星術についても精通しており、キリスト教史において長らく異端とされてきたヘルメス主義の哲学についても傾倒していたとされる。また、主張の内容についても遠慮を知らない部分があったらしい。以下に、それが窺えた部分を紹介する。

 


この美(注:女性の外見的な美)は、外面的にはわずかの間美しいとはいえ、その内面においては、われわれの継母である自然が産み出すことができた数多くの汚物と有害な毒物とからなる艦隊、商店、税関、市場を永続的に含んでいるのです。自然は、自らが必要とする種子を回収した後には、代償として、悪臭と、悔恨と、悲嘆と、消耗と、頭痛と、倦怠と、その他周知の数多くの悪を、われわれに与えるのです。結果として、甘い誘惑のあるところに、辛い苦痛が待ち受けているのです。
(『ジョルダーノ・ブルーノ著作集7 英雄的狂気』加藤守通訳 東信堂 p4)

 

わたしは、束縛されているとは思いません。というのも、いままで存在した紐や罠の製作者が編み、結ぶことができたすべての紐と罠をしても、そして(言ってよいのかどうかわかりませんが)わたしに害を加えようとするこれらのものの中に死が混じっているとしても、それらはわたしを束縛するにはじゅうぶんでないからです。
(同書 p5)

 


彼はその言葉通り、最期に死を与えられる結果となった。いわゆる地動説が処刑のきっかけとなったとするのは、おそらく早計なのだろう。
彼は、処刑を宣告する執行官に対しても「私よりも宣告を申し渡したあなたたちの方が真理の前に恐怖に震えているじゃないか」と言い放ち、火刑の際にも言葉一つ発さなかったとされる。敵に回すと厄介な人物と考えられたのも無理はない。

 

 

参考

 

ja.wikipedia.org

 

www.iwanami.co.jp

 

www.kiokuanki.com

 

artofmemory.com

 

kakaku.com

 

honto.jp

 

地球平面説

地球は球体ではなく、平面であるとする説。

 

不思議の国のアリス』の冒頭、アリスがウサギの穴に落ちる場面で、次のようなセリフがある。

 

 

「このまま地球をつきぬけちゃうのかしらん?頭を下にしてあるいてる人たちのなかへ、ひょっこりあたしが出ていったらさぞこっけいだろうな。(以下略)」

新潮文庫不思議の国のアリス』 訳:矢川澄子 p17)

 

 

これは決して、アリス独自の奇想ではない。重力という考えが広く認知されるまで、「なぜ地球の反対側の人は落ちないか」は、地球球体論者にとって大きな課題となった事実がある。

精密な天体観測もあって今や常識となっているが、重力を目に見える形で証明するのは現代でも不可能である。よく考えてみれば、広く認知されている方が不思議な気もする。

 

重力の存在を証明できないとしても、前世紀から続く宇宙開発によって、宇宙から地球を見ることも可能だ。ただ一方で、こうした宇宙開発の歴史を認めないとする派閥もある。こうした方達は、「フラットアーサー」と呼ばれる。

宇宙開発は世界各地で行われているため、これら全ての証拠を虚偽とするには、何かしらの陰謀によって事実が隠蔽されていると考える必要が出てくる。あらゆるメディアを敵に回すことになるわけで、地球平面説にとってはおそらく最大の参入障壁である。

平面説はマジョリティにはならないだろうが、宇宙旅行が一般的なレジャーとなるまでは根強く残り続けるだろう。

 

一応、目に見える形で地球の自転、ひいては球体説を示すのに「フーコーの振り子」というものがある。巨大な振り子を垂らすだけだが、大地が動いていないとするとやや不可解な挙動を目に見えて示す。そこから地球の自転を導き出すのだ。

しかし、半永久的に巨大な振り子を動かすのは難しい。振り子そのものはディズニーシーでも見られるが、電磁石の力を借りているはずで、恐らく完全自動の振り子はない。仮にそこを「イカサマしてる」と突かれると、我々には反論できない。コペルニクスの時代に戻って天体観測を続ける方が、地球を球体と示すだけなら順当な手順という気もする。

念のため、地球を球体と示す簡単な証拠をまとめてくれた記事があるため、そちらも参考で紹介しておく。

 

最後に、地球平面論者の人々がどんな考えを拠り所としているか、少し紹介してみよう。以下は『究極の洗脳を突破する【フラットアース】超入門』(著:レックス・スミス、中村浩三 ヒカルランド)からの引用で、レックス・スミス氏の言葉である。

 

 

 また、フラットアーサーは、基本的に観測至上主義の実証主義。自分の目と手で直接確かめられるものを一番重要視します。

 次に重要視するのが、理論的に、できるだけ先入観なしに考えること。

 非常に残念ながら、球体説論者は、そうではない方が多いように見受けられます。

 基本、他力本願ですし、誰々という権威者が言っていたから、どこどこのえらそうな機関が発表していたから。リサーチする際も、基本的には、知名度があり、代々資本化の血筋に握られている組織や機関の情報を一方通行で丸呑み。絶対的なものとして疑いません。(p22-23)

 

 球体説は、「地球は大きさが地球の約100倍ある太陽のまわりを、他の惑星とともにくるくるまわり、さらに太陽とともに、ほぼ無限大とも言える膨大な大きさの宇宙空間を超高速で移動し続けている」という設定です。

 支配層は、そう主張することで、わたしたち放牧奴隷の世界観を印象操作し、人間など宇宙の塵である、地球の上で生活する「塵の中の塵」であるという無力感を巧みに刷り込んでいるのです。

「ビッグバン」という宇宙の始まりを提唱する仮説も、わたしたちは、無機質から偶然と拡散の連続によって適当に作られた、どうでもよい存在であると刷り込みます。(p151)

 

 

普段生活する限りでは、地球が球体か平面かなど、そう大切なことではない。

逆にいえば、メディアが無ければ、多くの人は地球が球体などと思いもしないことだろう。そうしたメディアのない生活への回帰も、個人的には地球平面説に感じるものである。

 

 

参考

 

ja.wikipedia.org

 

gigazine.net

 

ja.wikipedia.org

 

www.cnn.co.jp

 

www.shinchosha.co.jp

 

www.hikaruland.co.jp

 

人体冷凍保存(クライオニクス)

不治の病に侵された人体を冷凍保存して、蘇生法が完成した時に解凍する技術。

 

人体を冷凍すると、細胞内の水が凍り体積が増える。そうすると細胞を包む細胞膜が破壊され、人体に多大なダメージを与える。

こうした問題を解決すべく、体内の液体を不凍液に入れ替えるなどの方法はあるが、人体を傷つけぬように行うのは難しいだろう。

 

だが、おそらく最大の問題は、生き返った後のことである。蘇生後、その人物はどんな人生を送るのだろう?『ブレスオブザワイルド』のリンクのように100年間眠ったとしたら、最悪、言葉すら通じない可能性がある。
さながらリップ・ヴァン・ウィンクルのように、「昔はよかった」と嘆きながら生きるしかないのか。そうならないよう、社会参入のため支援施設の導入も考慮すべきかもしれない。

 

人体冷凍保存という技術は、ロバート・エッティンガー(Robert Ettinger 1918-2011)という人物の活動で広まった部分が大きい。Cryonics Instituteの初代会長であり、1962年の著書『不死への展望』(The Prospect of Immortality、日本語未訳)が人体冷凍の幕開けとすれば、およそ60年の歴史があることになる。

現代、人体冷凍を行う最大の組織はおそらくアルコー延命財団(Alcor Life Extension Foundation)で、現時点で191体の遺体(組織内では遺体と言わず、「患者」と呼ばれる)を管理しているそうだ。不名誉なことだが、色んな訴訟や論争によって有名な組織である。

2009年、アルコーの元メンバー、ラリー・ジョンソン氏によって告発本が出版され、『人体冷凍 不死販売財団の恐怖』(講談社)のタイトルで翌年、日本語訳された。

内容はなかなかえげつない。要約記事のリンクを下に貼るが、文章だけでも閲覧注意だ。

 

最後の審判」の教えでは、死者は時がくれば復活するとされる。そのため日本とは異なり、特にカトリック教圏では遺体を傷つけない土葬が多い。現代でこそ、医学の発展のために献体する人も少なくないが、かつて西洋においては遺体を傷つけるのは最大の不名誉と忌避されていた。そうした信仰や死への恐怖も、人体冷凍保存の技術を後押ししているのだろう。

 

 

参考

 

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

www.alcor.org

ja.wikipedia.org

bookclub.kodansha.co.jp

gigazine.net