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管理人:平井宏樹

佯狂者(ようきょうしゃ)

東方正教会における聖人の称号の一つ。

 

「佯狂者」の「佯」という字には「よそおう」という意味があり、文字通り解釈すると「狂人の振りをする者」となる。社会的な地位や財産、慣習には脇目もふらず、信仰のために生活の全てを捧げる人物だ。英語では"Foolishness for Christ"とも訳されるが、ロシア語に忠実な”yurodivy”という語も当てられる。

ギリシア正教会は儀式の際の文言までが一字一句決まっているなど、かなり厳格な印象を受ける。聖人の称号には「登塔者(とうとうしゃ)」というのもあり、塔に一人で登り厳しい修行をした人物を指す。例えば殉教者への信仰はカトリックにもあるが、大いな犠牲を払い信仰に尽くした人物への信仰は東方のが厚いようだ。

 

佯狂者と呼ばれる人物で最も著名なのは、恐らく聖ワシリイ(1468-1552 or1557)だろう。赤の広場に建つ、ロシアの象徴的な建造物「聖ワシリイ大聖堂」で祀られる人物だ。ちなみに彼が永眠した日は「聖ワシリイの日」という祝祭日に当てられており、グレゴリオ暦でいえば日本の終戦記念日、8月15日がこの日にあたる。

聖ワシリイは、世界的に暴君として有名なイワン雷帝からも敬意を受けていたようだ。様々な伝承が交錯しており事実誤認もあるが、この点は確かとされている。彼の聖骸はイワン雷帝も自らの手で運んだという。彼を描いた絵画ではどれも裸の老人として描かれており、佯狂者にはふさわしい人物像といえるだろう。

 

聖ワシリイの伝承では、飲み物の入ったグラスをひっくり返したり、突然泣き出したと思えば予言をするなど、一種の超能力を持った奇人として描かれている。「佯狂者」の原義となるロシア語(юрoдивый)では「聖なる愚者」というニュアンスが強く、「狂った振りをしている」わけではなさそうだ。少なくとも彼は奇人ではあったろう。

日本にこうした人物像があるかと何となく考えてみたが、代表的な人物はあまり思い浮かばない。一休宗純が近いかと思ったが、どちらかというと既存の仏法に対する自己批判の要素が強いと思うため、「佯狂者」と言うのは違うだろう。中国の達磨大師などは近いと思うが。

推測だが、日本では信仰と生活とが密接に関わっており、俗的な価値観と宗教的価値観の対立、というジレンマがあまり発生しなかったのかもしれない。日本仏教の戒律は生活上の作法という点もあり、清く正しく生きてさえいれば仏教的な価値観においてもそれなりに清廉な人物として見られたというのはあるだろう。

 

以上から、「佯狂者」の人物像が日本ではイメージしにくいかもしれない。トルストイの『幼年時代』に、著者自身が幼少期出会ったという敬虔深い人物グリーシャに対する賛辞がある。恐らくこれこそ「佯狂者」と呼ぶに相応しい人物なのだろう。長いが、彼の紹介と共に引用しよう。

 

かれはどこから来たのか?両親はどんな人間か?こんな放浪生活をえらぶようになった原因はなにか?それはだれも知らなかった。私が知っているのはただ、かれが十四をすぎたころから、神がかりとして人に知られ、夏冬とわずはだしで歩きまわり、あちこちの修道院をたずね、気にいったものに小さな聖像をあたえ、なぞのことばを語って、それが一部の人たちに予言と受けとられていたこと、また、だれひとり一度も今と別の姿のグリーシャを見たことがないこと、この男がときたまおばあさんの所へ来ていたこと、ある者は、この男が裕福な両親の不幸なむすこで、清い心の持ち主のように言い、別の者は、かれをただの百姓で、なまけ者だと言っていたこと、だけである。

(『幼年時代』(レフ・トルストイ著、藤沼貴訳、岩波書店、1968)p34)

 

それからまたながい間、グリーシャはこの法悦の境地にあって、思いうかぶままの祈りをとなえていた。ときには、かれはなん度もつづけて、「主よ慈悲をたれたまえ」とくりかえしたが、一度ごとに新しく力と思い入れをこめるのだった。ときには、かれは「われをゆるしたまえ、なにをなすべきか、われに教えたまえ……なにをなすべきか、われに教えたまえ、主よ!」と、まるで、今すぐ自分のことばに答えてくれるのを待っているような調子で言った。ときには、悲痛な泣き声だけがきこえた……かれはひざをついたまま身をおこし、腕を胸にくみ、口をつぐんだ。

(中略)

ああ、偉大なキリスト教徒グリーシャ!お前の信仰は神を身近かに感じるほど強かった、お前の愛は、ことばがひとりでに口をついてほとばしるほど大きかった――お前はそのことばを理性でたしかめはしなかった……そして、ことばが見あたらず、涙にぬれて床に身を投げたとき、お前は神の偉大さに、本当に高い賛辞をささげたのだ!……

(Ibid. p68-69)

 

余計な注釈を入れずとも、この引用を読めば佯狂者がどんな人物を指すか、なぜ敬意の対象となるかがよく分かる。その言葉を妄言と取るか一種の予言と取るかはその人次第だが、ただの妄言と片付けるにはいささかもったいない場合もある、という位には構えておいていいかもしれない。

 

参考

ja.wikipedia.org

en.wikipedia.org

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ja.wikipedia.org

jp.rbth.com

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www.iwanami.co.jp