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管理人:平井宏樹

「狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり」

吉田兼好(1283?-1352?)の随筆『徒然草』の第85段に書かれている一文。

 

もう少し文脈の全貌が見えるよう、長めに引用してみよう。

 

 狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ*、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure050_099/turedure085.html

より引用)

 

この文章の真意は後半の「偽りても賢を学ばんを…」の部分にあり、つまりただの真似事としても賢い人に学ぶのは十分有用であるということだ。なのでタイトルにも挙げた「狂人の真似とて…」の部分はあくまで導入や一つの喩えでしかなく、作者の吉田兼好がどれほどの思いでこの文を入れたかは分からない。

 

ただ、ここ十年くらいの間で前半部分だけがネット界隈で独り歩きするようになったと言われる。例えば、炎上したYoutuberを真似して追随する者が言い訳として「〇〇さんがやってたから…」と責任逃れをした際に、それを諭す言葉として引用されたり、などの使用例があるようだ。

作者本人に思い入れの無い言葉が独歩し流通するというのは、ことわざが作られる過程を見るようなもので、それはそれで興味深い。類似した例では、「ゴキブリ」は元々「ゴキカブリ」という名称だったが、生物用語集で「ゴキブリ」と誤植されてからそれが定着してしまったというものもある。

 

言葉の流通過程を見るのも良いが、個人的に興味があるのは、では「狂人の真似」をする人は実際に「狂人」と言えるのかどうかだ。もちろんこれが偽であったとして『徒然草』に反証するつもりはないが、ある程度流行りの言葉なら、そうした精査をするのも悪くないと思うのである。

 

それにあたり、軽く触れておきたいことがある。なぜ「大路を走る」ことがさも狂人の行為のように言われているかだ。これに関しては、色々調べたりしたが確かなことは言えない。あくまで数ある仮説のうちの一つの可能性として理解して頂ければ幸いである。

恐らくここでいう「大路」は、平安京を南北に通る大通りのことを指すのだろう。都の中心を南北に貫く朱雀大路は幅82mもあったとされ、皇居前のみゆき通り(幅73m)よりも広かったそうだ。海外の使節を迎えたりする際に使われた神聖な道路で、庶民が裸足で駆けたりするのはもっての他だっただろう。

ただ平安京末期以降、都の機能が衰退するとこうした大通りは本来の機能を失い、一部は農地化されたり牛や馬を放し飼いする者もいたようだ。『羅生門』の時代である。鎌倉末期には多少状況は改善されたと思うが、とはいえ大路を走る不届き者を取り締まる役人がいたのかは定かではない。

当時から商工業が京の町で営まれていたことを考えると、個人的には「大路を走る」だけで狂人と見做すのは無理があるのではと思う。ただ、『徒然草』の作者はかつての京の町を思い描き、現状と齟齬があるにせよ一つの喩えとして、「大路を走る狂人」のイメージを作り上げたのではないか。

ただこの点については本当に素人考えのため、大きく的を外している可能性があることをご容赦願いたい。平安京の衰退や変化の過程については『平安京はいらなかった』(桃崎 有一郎 、2016、吉川弘文館)という書籍が主張もユニークで興味深かったため、関心のある方はこちらをご一読願いたい。

 

前の簡単な議論を受けて、ひとまずここでは「大路を走る」=「朝廷への不敬」と考えたい。当時の世相を考えれば、これは社会通念の無視を意味すると考えても問題はないだろう。こうした前提でもって、前者の狂人と、後者の狂人の真似をする狂人とを比較してみよう。

最も大きな違いとしては、社会通念に対する意識が前者の狂人には働いておらず、後者では社会通念に反すると知りながらそれに反逆しているという点だろう。精神病理学の範疇では、前者は間違いなく何かしらの病名を与えられると思うが、後者はその動機にもよるが、必ずしも病名が与えられるとは限らなそうだ。

いわゆるテロを起こすつもりで一度きりの行為をしただけならば「狂人」と呼ぶのは難しい。だが、ただ注目を浴びるためだけに「大路を走る」行為を繰り返しているなら例えばパーソナリティー障害などに分類される可能性がある。少なくとも前者と後者の「狂人」では分類が異なるということは言えるだろう。

 

上の議論を受け、改めて吉田兼好の文の真意(「偽りても賢を学ばんを、賢といふべし」)について考えてみよう。

前者の「賢」と後者の「賢」では、いずれも賢といえる可能性はあるが、もしかすると質の違う賢さかもしれない。個人的には、ただ賢者の一度真似をするだけでは賢者になったとは言えず、継続的にその行為を行い、大した動機がなくともそれが出来るようになれば賢者と言える…という所に結論を置きたいが、どうだろうか。

 

参考

 

dic.nicovideo.jp

www2.yamanashi-ken.ac.jp

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

www.yoshikawa-k.co.jp

www.msdmanuals.com