何かが道をやってくる

管理人:平井宏樹

サンセリフ(San Serriffe)

1977年のエイプリルフールに、イギリスの新聞『ガーディアン(The Guardian)』に掲載された架空の国。書体の一種サンセリフ(Sans-serif)とは綴りが異なるため注意。

 

エイプリルフールのジョーク記事なのだが、力の入れ方が半端ではない。7ページもある特集記事として紹介され、様々な企業が広告も出している(7ページ中4ページが記事を模した広告であった)。この記事をきっかけに、エイプリルフールにジョーク記事を出すという風習が英国のメディアで生まれたとも言われる。

この記事は異例の反響を呼び、旅行代理店や航空会社にこの島についての詳細を求める問い合わせが大量にあったという。サンセリフの気候や文化、歴史を詳細に紹介したのに加え、様々な企業も便乗して好意的な文を送っていたため、ネットのない時代では信じない方が難しいだろう。

石油や化学産業が栄え経済的に豊かで、かつて英国の植民地下にあった歴史があり、現在では民主制が確立されている…など、当時のツーリズムの関心がよく表れている点から、一種の研究対象としては興味深いかもしれない。サンセリフは一般英国人にとってのユートピアだったのだ。

 

類似した例として、自分はジョージ・サルマナザール(George Psalmanazar 1679?-1763)の『台湾誌』(1704)を連想する。原題を全て訳すと『台湾(日本皇帝支配下の島)の歴史地理に関する記述』(Historical and Geographical Description of Formosa, an Island subject to the Emperor of Japan)となり、タイトルからして荒唐無稽である。

サルマナザールは台湾人を自称し、一時は英国では有名な人物であったようだ。勿論事実無根なのだが、『台湾誌』を参照すると、台湾の文化や宗教、言語などについて詳しく書かれている。一説には、ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift 1667-1745)の『ガリヴァー旅行記』(Gulliver's Travels 1726)に影響を与えたとも言われる。

サンセリフといい『台湾誌』といい、こうしたものを見ると人の想像力のエネルギーに驚く。架空のものを創り上げるのにこれだけの労力を割けるという点では、個人的にリスペクトを抱いてしまう。あるいは架空のものだからこそ、のびのびと描けたということだろうか。

 

ところで自分自身、こうしたフェイクにすっかり騙されたことがある。Twitterで偶然見かけた入試問題で、「5のπ乗は整数か。」というものを見かけて、自力で解こうとしたが中々解けず、数学に明るい知人に連絡して助けを求めることになったが、その知人も難儀するということがあった。

その後にこの問題を出題した大学を調べたところ、「国際信州学院大学」理学部の2022年の入試問題だったようで、聞きなれない大学だったため調べたところ、どうやらネット掲示板のやり取りで生まれた架空の大学ということが分かった(ただし公式HPもある)。ちなみに7代目の学長はかの有名な、ひろゆきである。

上記の問題はとても手計算で出来るものではないと判明し、協力してくれた知人に詫びを入れることになったが、インターネット社会となっても調べが甘いと自分のようにフェイクに釣られる人が現れると知った。世の中には笑えないジョークというのもあるので、そうしたものだけには引っかからないようにしたいものだ。

 

 

参考

ja.wikipedia.org

hoaxes.org

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

kokushin-u.jp

 

 

「青い目の島民」(The blue-eyed islanders)

論理パズルの一種。

少々長いが、内容を紹介する。色々パターンがあるが、以下はその一例である。

 

 人口1000人の島がある。そのうちの100人は目が青く、900人は茶色だ。ところが、島には鏡がなく、その島の宗教では目の色について語るのは一切禁じられている。さらに悪いことに、何らかの事情で自分の目の色を知ってしまった人はその日のうちに自ら命を絶たなくてはならない。

 ある日、1人の探検家が島に上陸し、全島民の前で話すよう決められる。ところが、探検家はその地方の習慣を知らなかったため失態を犯す。島民の前でこんな発言をしてしまったのだ。「なんて嬉しいことだ。青い目の人にまた出会えるなんて。何ヶ月も前に海に出て以来のことだ」。さて、この後どうなるだろうか?

(『マスペディア1000』著:リチャード・エルウィス 訳:宮本寿代 p550 下線部は原文では傍点)

以下はこのパズルの答えになる。興味のある方は上の文だけで自力で考えても良いが、かなり難しいと思う。

 

 青い目の自殺の謎の答は、目の青い島民の数に依存する。もとの問題では100人だったが、たった1人しかいない場合から考えたほうが簡単だ。その人をAとしよう。ここでAは、探検家の話を聞いて少なくとも1人は目の青い島民がいることを知る。自分には目の青い人が見当たらないことから、それは自分に違いないとAは結論する。第1日目に、Aは自ら命を絶つ。

 では、目の青い人がAとBの2人だとする。AはBを見ている。だからAには、少なくとも1人は目の青い島民がいることがわかる。しかし、2日目になってBが自殺していないとわかると、Bも目の青い人を見ているに違いないと推測できる。ところが、Aから見たとき、Bのほかに目の青い人は見当たらない。よって、自分に違いないと結論する。2日目にAは自分の命を絶つ。Bも同様だ。

 一般的な命題は次のようになる。目の青い島民がn人いるなら、全員がn日目に自殺する。これは、帰納法を使ってわけなく証明できる。だから、もとの問題の答は、目の青い島民は全員100日目に自殺するというものだ。

(p550-551)

このパズルは、数学の分野でいえば「ゲーム理論」の一種にあたり、特に「共有知識」という概念と密接に関わる。Wikipediaの「共有知識」の記事にも同種のパズルが例として挙げられており、数学的に厳密な定義についても述べられているが、そちらは難しくなるためご注意願いたい。

数学的な定義を抜きにして「共有知識」についての知見を求める方には、『コンヴェンション 哲学的研究』(著:デイヴィド・ルイス 訳:瀧沢弘和 慶応義塾大学出版会)を勧める。少なくともこの概念が生物の生存戦略政治学言語学にまで及ぶ重要な概念というのは理解いただけるのではないかと思う。

 

ここから少し横道に逸れて、この問題自体の設定に触れたい。この奇妙なシチュエーションはどういった発想の下で生まれたのだろう?

東アジアの国々においては、黒や茶色の目色の人が圧倒的に多いが、ヨーロッパ圏では古来より目色の多様性があった。青い目は虹彩に含まれるメラニン色素が少ないことを示し、日照時間が少ないヨーロッパ北部に多い。確認できた統計では、世界人口の8~10%が青い目をしているそうだ(上の問題の割合とほぼ一致する!)。

もちろん例が無い訳でないが、そうした理由で眼の色による「差別」は西洋では珍しかったといえる。問題を考えるにあたり、既存の社会問題に触れないようにしようという一応の配慮があったのだろう。だから、問題の設定に「肌の色」や「髪の色」は選ばれなかった。

ただ、わざわざ「自殺」という要素を選ぶあたりがちっとも穏やかでない。ブラックユーモアを含む論理パズルは多いが、例えば「1000本のワインのうち、毒入りワインを見つけるために必要な奴隷は何人か?」というものもある(解答は参考にある動画を参照)。個人的にこういう諧謔は実はそう嫌いではない。

 

最後に、ジェーン・エリオット氏(Jane Elliott 1933-)が行った「差別実験」に触れておく。これは1968年4月のキング牧師の暗殺を受けて、彼女が担任していたクラスにおいて授業の一環として行われたもので、青い眼の生徒と茶色い眼の生徒の間にあえて格差を設けることで、差別を実際に体感することを意図している。

まずは茶色い眼の生徒が青い眼の生徒に対して優位であるという雰囲気をつくり、その後に立場を逆転させることで平等を図ったようだ。実験の間は優位にある側が格下の生徒に対して横暴に振舞ったり、テストの結果の優劣にも格差が表れるなど、実験の結果は如実に出たようである。

この実験に対しての反応は様々だったが、当時は否定的なものが圧倒的に多かったようだ。眼の色による差別は例が少ないとはいえ、現代に行うのは難しいだろう。一緒にしてはいけないと思うが、格差を与えた結果暴力が生まれたという点では、映画『es』などでも有名な「スタンフォード監獄実験」を少し彷彿してしまう。

最近、甲南大学の田野大輔氏による「ファシズムの体験学習」が話題となったが、こちらは比較的明るく世に受け入れられた印象だ。エリオット氏の実験は小学生が対象なのに対してこちらは大学生が対象であるし、ファシズムが過去の話と思われている節もある。内容は勿論だが、こうした授業ができるということ自体も興味深い。

 

 

参考

 

d21.co.jp

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www.keio-up.co.jpja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

www.otsukishoten.co.jp

www.youtube.com

 

三体問題

フランスの数学者アンリ・ポワンカレ(Henri Poincaré 1854-1912)による研究が有名な、物理学上の問題。Wikipediaでの表現をそのまま引用すると、「互いに重力作用する三質点系の運動がどのようなものかを問う問題」のこと。要は天体が三つ近づくとどうなるか、だ。


当サイトは科学専門ではないので、数学的・物理学的な理論の詳細は別に譲りたいと思う。ここでは、この問題の概要についてのみ、簡単に記すこととする。

結論からいえば、一般的には「予想はできない」が答えになる。詳しく知りたい方には、『三体問題 天才たちを悩ませた400年の未解決問題』(浅田秀樹 BLUEBACKS 2021)を勧める。高校数学の範囲で、多少数学に問題意識があっても分かりやすく解説してくれている。

 

天体が二つ接近した場合の軌道に関しては、1687年にアイザック・ニュートン(Issac Newton 1642-1727)が『自然哲学の数学的諸原理』の内で示している。天体が三つ以上の場合に関しては研究が滞っていたが、1889年、上述のアンリ・ポアンカレにより、特殊な場合を除いて解を導けないことが証明された。
前掲した浅田氏の本のタイトルに「400年の未解決問題」とあるのは、三体以上の天体の接近においても解を導けるケースが現代に至るまで次々と発見されたためだ。こうした特殊解が後の研究に繋がることもあり、こちらの詳細はWikipediaにある「ラグランジュ点」の記事をご参照願いたい。
三体問題の研究において、数学・物理学における「カオス」の概念が見出され、以降「カオス理論」と呼ばれる一つの分野の端緒となったため、この点でもポアンカレの功績は大きい(ポアンカレの名前はむしろ、「ポアンカレ予想」の人ということで知られることが多いだろうが)。

三体問題の話を当ブログで取り上げたのは、この問題の発想、そして「予想不可能」という結果について、個人的に蟲惑的な魅力を感じるためだ。

実際、この問題についての書物がいくつか書かれているし、SFなどの創作にも大きな影響を与えている。「機動戦士ガンダム」しかり、アイザック・アシモフによる「ファウンデーション」シリーズ、未読のため恐縮だが最近話題の長編SF、『三体』(劉慈欣 重慶出版社 2008)にも影響があると聞いている。

物事が多様なことを示す喩えに「三者三様」という言葉があるように、物事は1つのみの場合、2つに分けられる場合、3つ以上の場合とで異なる。「現代は多様性の時代」と言われるが、これは「物事を二分して考えよう」という思考への一種のアンチテーゼである。
そう考えて現代史を眺めてみると、戦後世界を動かしたのは「西側諸国」「東側諸国」は勿論であるが、いわゆる「第三世界」と呼ばれた国々の動向が重要であった(ベトナム戦争キューバ危機がその例である)。冷戦後は東西対立も緩和して勢力図を描くことは難しくなり、第三世界という言葉すら死語となった。

 

つまるところ三体問題は19世紀末という、これから多様性の時代が始まるという時に現れ、「これから世界は三体のカオスな世界に入る」と半ば暗示的なメッセージを含んでいたのではないか、とオカルティックな想像を掻き立てるため、見逃せない気分になるのではないかと思う。
20世紀以降は、ゲーデル不完全性定理やハイゼンベルグ不確定性原理など、そもそも数学や物理学において「できない」ことを示す発見のインパクトが大きかった。これくらいでは数学や物理学の重要性は揺るがないが、少なくとも数学や物理学で扱えない問いもあることが分かった。

現代はコンピュータの発達によって、難しい演算も強引に計算することができるようになったため、三体問題のような状況も一応シミューレーションが出来る。それによって軌道の予測可能な三体問題の例外が次々発見されているが、実際に三つの天体が近づいた時何が起こるか、ほぼ予測不可能なのは変わらない。

 

ラプラスの悪魔」の存在が20世紀に否定されたとき、科学は「全ての未来を知りうる存在」でないことが明らかとなった。常に内容がアップロードされるし、少し前まで常識だったことが一瞬で覆ることもある。それでも現代に至るまで、「科学的に証明されている」という言葉のインパクトは大きい。

信仰を持たない人にとって、科学というのは絶対的な権威になりうる。いわゆる人間の集合知のようなものだし、そうなりうるのも納得できるが、常に更新される可能性を鑑みると「絶対的」な存在から程遠いことには注意すべきだ。その点を忘れないよう、科学との距離感を誤らないようにしたい。

残念ながら、科学は理性の拠り所になっても心の拠り所にはならない。特に日本においては、信仰に対する風当たりはきついように思うのだが、科学との適切な距離を図るには、信仰に関してもよく知っておく必要があると個人的には思うのだ。

 

 

参考

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bookclub.kodansha.co.jp



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ja.wikipedia.org

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アブダクティー(abductee)

英語で"abuductee"というと「誘拐された人」といった意味になり、場合によっては「拉致被害者」を指すこともあるが、カタカナで「アブダクティー」と表記する時は、「エイリアンに誘拐された人」を指すことが多い。念のため言っておくと、こちらはエイリアンの誘拐についての記事である。

 

UFOを見たという報告は日本でもあるが、エイリアンにさらわれて何かされたというケースは日本だと珍しいかもしれない。というより、アメリカでのケースがダントツに多い。そうした報告については”Alien Abduction”(エイリアンによる誘拐)というタイトルでWikipediaの記事があり、そちらに詳しい。

エイリアンによる誘拐を経験をした人々をわざわざ「アブダクティー」と呼ぶようになったのは、この経験が彼ら彼女らにとって深刻な影響を残す場合があるからだ。

 

その経験が一種の天啓となることもあれば、深いトラウマとなることもある。エイリアンと性交渉をしたという報告もあるし、改造を施されたり、メッセージを託されたというのもある。こうした報告を始めから嘘とかかって聞くかは自由だが、少なくとも当人にとっては深刻な問題のため、場合によっては注意深く耳を傾けることも重要だろう。

ジョン・E・マックの『アブダクション 宇宙に連れ去られた13人』(訳:南山 宏 COCOLO)にはアブタクティーの人々の体験が詳細に書かれており、大変参考になる。

勿論それ自体も興味深いが、著者自身がこうした事象にどのように向き合うか、そのスタンスの模索も面白い。初版で様々な批判を受けた結果、あくまで客観的な立場を失わないように配慮して断定的な表現を避けたと述べられているが、内容が内容なだけに証言を当てにするよりなく、難しかったろうと思われる。

個人的な感想を述べると、著者の思惑に反して、この本にはアカデミックな立場からは外れる表現が含まれるように思う。それは「~らしい」「~と話している」などと表現を和らげたとて避けられない。そのあたりをどう判断するか、微妙なラインと思われる描写の一部を以下に引用するため、ぜひ読んでご判断頂きたい。

 

アブダクション体験の多くは明らかに精神的であり、ふつうは神聖な光となんらかの強烈な遭遇をしたりその中に没入したりする。この現象はカルロスのケースでは圧倒的な力を持っているし、わたしが調べてきた多くのケースにも見られる。エイリアンは侵害的活動に対する恨みを買ってはいるが、仲介者とも見なされ、わたしたちよりも神または存在の根源に近いと見なされることがある。カルロスのケースのように、天使や神に類似したものと見なされることさえある。わたしが扱ってきた多数のアブダクティーは、ある時点で宇宙の存在の根源に対して解放される体験をする。多くの場合彼らはそれを「故郷(ホーム)」と呼び、人間の姿になる途中でそこから残酷に切り離されたと感じているのである。セッション中に開放されたり故郷へ帰ると、彼らは恍惚としてすすり泣くこともある。サラのケースのように、地球で人間の意識に変化をもたらすのを助けるなんらかの使命を帯びていることに気づいていても、体をもつ形で地球に留まらなければならないことを恨むこともある。

(p563)

 

精神分析の大家カール・グスタフユングも、世界的にUFO熱が高まりつつある1950年代末に『空飛ぶ円盤』を著す。こちらはジョン・E・マックの著作とは異なり、大胆に深みに入って壮大に話を広げるのが印象的だ。ユング自身にとっても最晩年の著作で、彼の理論が遺憾なく発揮されているのは注目に値する。

 

この圧倒的な多数者の態度こそが、投影という無意識の自己主張をうながす絶好の条件なのである。つまり底にひそんだ無意識が、合理的な批判にもめげず、しかるべき幻視を伴ったシンボルの噂という形で表面にあふれだし、常に秩序と開放と治癒と全体性をもたらすものであったあの元型を、ここでもまた活躍させるのである。この元型が伝統的な形姿をとるかわりに即物的なしかも工学的な形をとったのは、神話的な人格化を嫌う現代にあってまことに象徴的といえるだろう。技術的工学的と見さえすれば、現代人に難なく受けいれられる。形而上的な裁定という流行遅れの観念も、宇宙飛行の可能性によって受けいれやすいものになる。UFOが一見無重力であるのは解しがたいことではあるが、われわれの最新の物理科学にしても、ほとんど奇跡に近いような発明をいくつとなく成し遂げている以上、知能の進んだ宇宙人が重力を超克したり、光速かそれ以上のスピードを出せるようになったとしてもなんの不思議があろうか、というわけである。

(p34-35 訳:松代洋一 ちくま学芸文庫 引用元では上記の下線部は傍点で記されている)

 

ユングはUFOを一つの元型(アーキタイプ)と捉え、現代における神話的な象徴の一つと考える。それ自体が客観的に実在するか否かは、作品を読む限りそれほど関心の的でないようだ。むしろ、UFOに関しての証言が現代になって多く挙がることの意味を捉えようとする姿勢であり、かなり読み手を選ぶところだろう。

この著作内でユングは患者の夢や絵画作品による分析をしており、UFOの目撃証言を手掛かりとしない点もかなり独特だ。こうしたアプローチは文化人類学や芸術学など、かなり広い分野の知見も必要となるし、残念ながら実証性にも乏しい。それで後続の研究は特に現れていないようだ。少し残念な気もする。

 

個人的には、宇宙人が実在するかより、UFOの存在が多くの人々の間で噂されることに興味があるため、ユングの研究は面白い。

地球外生命体の話となると、どうしても現代文明を相対化してスピリチュアルな方向に向かいがちだが、存在を完全に否定するような証拠も出揃っていないのも事実である。むしろ、広大な宇宙の中で地球だけが生命に溢れているというのは孤独な気もするので、出会わなくてもいいからどこかに存在はして欲しい気がする。

あるいは宇宙人の存在を見つける前に他の星を植民地化する可能性もあるが、どちらに転ぶか見届けたいものだ(全く別の選択肢に転ぶ可能性もあるが)。

しかし、こうした興味とアブダクションの証言への関心は自分の中では別物である。ただ一種の興味深い社会現象として、淡々と記憶すべきであるとは思う。

 

 

参考

en.wikipedia.org

honto.jp

www.chikumashobo.co.jp

マクマーティン保育園裁判(The McMartin Preschool Trial)

1984年から1990年にかけて、アメリカのカリフォルニア州で行われた刑事裁判。ただし証拠不十分として容疑者は全員無罪となり、史上最長の刑事裁判であり史上最大の冤罪事件となった。

 

事件の概略をまずは述べる。「マクマーティン」というのは起訴された園長の姓で、他に6名の保育士が性的虐待の告発を受けた。最初の告発(こちらも後ほど荒唐無稽な内容と判明)があった後、同様の被害報告が300件以上も、子どもたちを通じて相次いで上がる。当時、託児所や保育園に子どもを預ける家庭が増えていたこともあり、全米規模で保育所に対する疑念が向けられた。
後に子どもたちにカウンセリングを行ったセラピストによる誘導尋問や、検察による証拠隠滅の疑惑が判明し、最終的には全員の無罪が確定するのだが、被疑者たちが被った被害は大きく、度重なる裁判費用などにより身を滅ぼした方もいる。さらに近隣の無関係な保育所が閉園したことも考えると、被害規模は想像を絶する。何とも報われない事件である。

 

この事件の詳細を調べるため、『マクマーチン裁判の深層』(北大路書房)を読んだが、読めば読むほど何ともやるせない気持ちだ。告発の内容は、いわゆる「悪魔的儀式虐待(SRA)」と言われるもので、荒唐無稽と言われても仕方ないものだが、なぜそれが明らかになるまでにこれほどの被害者が出てしまったのか。
個人的に最も報われないと感じたのは、カウンセリングを受けた子どもたちのことである。彼ら、彼女らにとっては恐らく暗示も多分に入っているとはいえ、今ある記憶だけが頼りだ。なので、事件から30年以上経った今でも被疑者を許せないという方もいるという。
現時点では「証拠不十分」というだけで、潔白が晴れたわけではない。この事件では証拠がいくつもでっち上げられ、今後もそうしたことが無いとは限らない。一度生まれた疑惑を払拭するのは実に難しいと感じる。とはいえ、存在しない記憶を根拠に誰かを憎み続けているなら、こんなに虚しいことも無いだろう。

 

エリザベス・ロフタス(Elizabeth Loftus)氏の著書『抑圧された記憶の神話』(共同執筆:K.ケッチャム 訳:仲 真紀子 誠信書房)には次のように述べられている。

 


 科学者は、視覚システムによる空間内の事物や特徴の同定が、記憶の始まりだと考えている。知覚が生じた各々の箇所において、脳細胞は後の使用に備え、その印象を保持するよう指令を受ける。そうすると、細胞に特殊な物理的変化が起きる。また、海馬という小さな器官(脳の両側に一つずつ、計二つある)が、これらの分割された箇所をリンクし、広範な感覚を一つの体験として統合する。これが記憶として刷り込まれるのだ。特定の記憶が検索されるたびに、脳細胞間のコネクションは強化される。
 つまり、脳は点在する神経上の箇所をつなぐ、何十万もの小さな重複しあう情報「ネット」で満たされている、と考えてよいだろう。特定の記憶の糸を引き上げれば、ネット全体が持ち上がり、それを取り巻く、何重にも重なる記憶もまた攪乱を被る。さらに複雑なことに、記憶という構造物は血液、化学物質、電気など、どちらかといえば捉えどころのない、うつろいやすい結合でできている。ネットがからまり、結び目ができ、複雑に入り組んだ素材がほつれや穴で破れてしまうこともあるだろう。心は壊れたところを修繕しようと頑張るが、常に腕の立つ几帳面なお針子になれるわけではない。(p111)

 


「抑圧」(Verdrängung)という言葉はフロイト以降、心理学の重要ワードであった。恐らく最初にこの語が言われた頃は、映像が脳内にそのまま格納されているようなイメージだったろうが、どうやら見たものが見たまま、記録されているという筋はなさそうだ。映像はデータが重く、そのままの形で残すのは脳のキャパシティを考えても恐らく難しい。
だが一方で、記憶が証拠としては不確かな場合があるということも、この事件を踏まえた上でよくよく意識すべきだろう。事件の発端から最後まで一貫し証拠不十分と結論は出ても、被疑者の方々は未だに「推定無罪」の名を着せられ、他の犯人でも見つからぬ限りその撤回は難しい(犯人がいない犯罪の場合はどうすればいいのだろう)。結局証拠が全て泡のように消え、かといって疑いが晴れることもなく、繰り返すが何ともやるせない事件である。

 

 

参考

ja.wikipedia.org

en.wikipedia.org

www.kitaohji.com

www.seishinshobo.co.jp

www.famous-trials.com

聖変化

聖餐において、パンやブドウ酒がキリストの体と血に変化すること。

 

カトリック教会には「七つの秘跡」と呼ばれるものがあり、

 

・洗礼

・堅信

・結婚

・終油

・叙階

・聖餐

・悔悛

 

と分けられる。聖餐は秘蹟の中でも、食事に関するものであるだけに教徒の方々の中でも最も身近な部類に入るだろう。それゆえ多くの議論を巻き起こし、未だに決着がついていない部分もある。

 

出典として多く引かれるのが、聖書の以下の部分である。

 


感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体で
ある。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事
の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新し
い契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われ
ました。
( 『聖書 新共同訳』日本聖書協会、コリントの信徒への手紙1 11章24-25節 
Wikipediaより引用)

 


誰かと食事を共にすることは、現代においてもある種、契約に近い意味を指す。
日本でも「同じ釜の飯を食った仲」と言うし、これはある程度普遍的な感覚だろ
う。

だが、実際にパンとブドウ酒がキリストの肉となり血となるかというと、ど
うだろう。その点については様々な立場があるが、ここでは大きく分けて「化体説」「象徴説」「共在説」を紹介する。

 

「化体説」はシンプルに、秘蹟の力でパンやブドウ酒がそっくりそのまま、キリストの血肉となると主張するもので、カトリック教会やギリシア正教会がこの立場に立つ。
「象徴説」は、パンやブドウ酒はあくまでキリストの血肉の象徴でしかないが、秘蹟によってキリストの受難などを想起させる働きがあるとし、「想起説」とも呼ばれる。宗教革命を率いた一人、ツウィングリが主張したことで有名である。
「共在説」は複雑である。マルティン・ルターの提唱であるが、パンやブドウ酒
秘蹟を受けることにより、パンやブドウ酒であると同時にキリストの血肉にも
なるとする。同時に二つの存在になるということで、これが「共在説」の名前の
由来となっている。
「共在説」についてもう少し述べると、ルターの立場の背景には、聖書絶対主義
がある。聖書には、秘蹟によって変化するとも書かれていないし、象徴するとも
書かれていない。奇妙な説に思えるが、聖書の記述には恐らく最も誠実な立場である。量子力学で言われる「状態の重ね合わせ」を連想するが、そうした複雑な存在論が16世紀にあったというのは興味深い。ルターの立場に関しての一節を文献から引用し、ここでの注釈とする。

 

 

 ルターは聖餐のパンの中におけるキリストの実在を、この創造主である神の「内」や「充満」によって説明し、時には、制定語がなくても、キリストの体の遍在についての説明が可能であるかのようなことを言っているが、彼としては、別段、奇矯なことを言っているつもりはなく、聖書にしたがって、神の「内」や「充満」を言っているだけで、どこが悪いのか、エレミヤも言っているではないか、と言いたいところであろう。(中略)

 創造主なる神が全能の力をもって、現在、世界をくまなく、内からも、外からも、支配し、保持し、導いている。これがルターの確固たる信仰である。しかしその支配の仕方は一様ではなく、人間の目にもあらわではない。時には全く支配が行われていないと思われることもある。彼は同時性の論理によって遍在について「どこでも」(allenthalben)と共に「どこにもない」(nirgend)を繰り返し言う。神は遍在していると同時に、「どこにも存在しない」と言うことができるのである。

(『宗教改革者の聖餐論』赤木善光 教文館、p135)

 

 

ちなみにカトリック総本部、法王庁にはこうした秘蹟を科学的に調査する部署がある。聖変化の例でいえば、「パンがキリストの体に変化した」とする報告がいくつかあり、それに対して科学的に正しいと示したこともある。

ただ、フランシスコ教皇になって同様の報告があった際、法王庁はその秘蹟を科学的に否定したこともあり、盲目的に追認しているわけではない。現代的な合理主義も受け入れようという姿勢が見えて、法王庁の態度の変化を実感できる部分といえる。英語だが、詳細記事を参考に載せるので、興味があれば読んでほしい。

 

余談になるが、最近、藤木稟氏の小説『バチカン奇跡調査官』を大変面白く読んだ。探偵小説としての面白さを失わず、信仰と科学の葛藤という難しい課題に積極的に挑むのは度胸がある。主人公二人のキャラクターも分かりやすく、読みやすい。法王庁の科学調査がいかなるものか、もちろん潤色は多々あるだろうが、イメージするにはもってこいである。テレビアニメ等でご存知の方も多いだろうが、こちらもついでにオススメしておく。

 

 

参考

 

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

www.kyobunkwan.co.jp

ja.wikipedia.org

cruxnow.com

kadobun.jp

 

 

聖像破壊運動(イコノクラスム)

「聖像破壊」を、

1.信徒が、自身の宗教に属する聖像を破壊する
2.特定の宗教の信徒が、異教の聖像を破壊する

に分けて考える。

現代においては2のパターンがメジャーだろうが、1のパターンも忘れてはなら
ない。

 

2のパターンで多くの人がイメージするのは、例えば2001年にタリバンによって
破壊されたバミヤン渓谷の大仏などだろう。イスラム教の偶像崇拝禁止の規定に
反するとされ、仏教に属する聖像が破壊された。この行為に関しては、国際的な
諸組織だけでなく、イスラム教の内部からも大いに批判が寄せられた。

 

イスラム教やユダヤ教偶像崇拝の禁を堅く守り、仏教やヒンドゥー教は仏像を
作ることに抵抗は少ない。かつてのギリシアやローマのように、多神教世界で聖
像はよく作られる。
このように考えていくと、キリスト教の特殊さに気付くだろう。
一神教でありながら宗教画や聖像が積極的に作られ、深く浸透している。元々多
神教世界であったヨーロッパの地に東方からの文化が入り、複雑な過程を経て広
まった、その成立が関係しているのだろうか。
導入が長くなったが、要するに1のパターンの聖像破壊はキリスト教に多いよう
なのだ。

 

「イコノクラスム」というと、基本的には8~9世紀にかつての東ヨーロッパの大
国、ビザンツ帝国で起きた現象を指す。皇帝レオ3世により出された聖像禁止令
を端緒とする。いかんせん昔の話で、被害の規模はまだ良いとして、何をきっか
けにこうしたお触れが出されたかは分からない部分も多い。お触れが撤回された後、聖像禁止擁護派の記録が攻撃され、散逸したのだ。
キリスト教圏で恐らく最も大規模に聖像が破壊されたのは、宗教革命の時代だろ
う。その時代、聖像がどのように考えられたか、宗教革命を牽引した一人、カル
ヴァンの言葉を引用する。

 


 その一方で注意しなければならないのは、聖礼典の力を弱めてその用益を空し
くする人たちがいるのと同様、反対側には、そこに何か秘密の力が加えられてい
ると言う者が立っていることである。だが、聖礼典にそのような力が神によって
挿入されたとは、どこにも読むことができない。このような誤った教えによって
、無学で無知な人たちは、神の賜物を決して発見できないところに尋ね求めよと
教えられて、危険な欺きに遭い、知らず知らず神から引き離され、ついに神の真
理の変わりに紛いなき虚妄を抱くに至った。(中略)しかし信仰なしで受け取ら
れるサクラメントは、教会にとっての最も確かな破滅でなくて何であろう。約束
のないところには期待すべき何ものもなく、約束があるところには、信仰者に恵
みを掲示するに劣らず不信仰者を怒りによって怯えさせるから、神の言葉によっ
て差し出されたものを真の信仰をもって受け入れる以上の何ものかが聖礼典によ
って自分に渡されたと思う者は、間違っている。
(『キリスト教綱要改訳版 第4編』ジャン・カルヴァン=著 渡辺信夫=訳 
新教出版社、2009 p312-313)

 


ここでは聖礼典に関して述べているが、あくまで聖書の言葉を重視し、その他儀
式めいたものはそれに準ずるものと扱うべき、との姿勢が表れている。
旧約聖書には、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
」(出エジプト記:20-3)「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならな
い。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの
、どんな形をも造ってはならない。」(出エジプト記:20-4)とある。ユダヤ教
イスラム教はこうした教えを強く守っているのだ。
先ほども述べたが、キリスト教の根底にはギリシア・ローマの多神教文化があり、聖像を造る文化についても元は寛容であった。多神教一神教の緊張関係に意識を向けつつキリスト教史を眺めてみるのは、興味深い視点かもしれない。

 

日本は多神教のカラーが強く、偶像崇拝の禁については理解しにくい部分も多い。ユダヤ教の経典『タルムード』においては、性道徳の比喩を用いて旧約聖書を説明しており、たしかに性の文脈においてなら現代の日本でもその意味合いが把握しやすいだろう。たとえば、対象そのものでなく付属物に執着するというと、一種の性的フェティシズムがそれに該当するが、その性嗜好に対する是非は人により大いに分かれるだろう。

 

 

参考

 

ja.wikipedia.org

www.y-history.net

honto.jp

www.h-up.com

ja.wikipedia.org