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管理人:平井宏樹

アブダクティー(abductee)

英語で"abuductee"というと「誘拐された人」といった意味になり、場合によっては「拉致被害者」を指すこともあるが、カタカナで「アブダクティー」と表記する時は、「エイリアンに誘拐された人」を指すことが多い。念のため言っておくと、こちらはエイリアンの誘拐についての記事である。

 

UFOを見たという報告は日本でもあるが、エイリアンにさらわれて何かされたというケースは日本だと珍しいかもしれない。というより、アメリカでのケースがダントツに多い。そうした報告については”Alien Abduction”(エイリアンによる誘拐)というタイトルでWikipediaの記事があり、そちらに詳しい。

エイリアンによる誘拐を経験をした人々をわざわざ「アブダクティー」と呼ぶようになったのは、この経験が彼ら彼女らにとって深刻な影響を残す場合があるからだ。

 

その経験が一種の天啓となることもあれば、深いトラウマとなることもある。エイリアンと性交渉をしたという報告もあるし、改造を施されたり、メッセージを託されたというのもある。こうした報告を始めから嘘とかかって聞くかは自由だが、少なくとも当人にとっては深刻な問題のため、場合によっては注意深く耳を傾けることも重要だろう。

ジョン・E・マックの『アブダクション 宇宙に連れ去られた13人』(訳:南山 宏 COCOLO)にはアブタクティーの人々の体験が詳細に書かれており、大変参考になる。

勿論それ自体も興味深いが、著者自身がこうした事象にどのように向き合うか、そのスタンスの模索も面白い。初版で様々な批判を受けた結果、あくまで客観的な立場を失わないように配慮して断定的な表現を避けたと述べられているが、内容が内容なだけに証言を当てにするよりなく、難しかったろうと思われる。

個人的な感想を述べると、著者の思惑に反して、この本にはアカデミックな立場からは外れる表現が含まれるように思う。それは「~らしい」「~と話している」などと表現を和らげたとて避けられない。そのあたりをどう判断するか、微妙なラインと思われる描写の一部を以下に引用するため、ぜひ読んでご判断頂きたい。

 

アブダクション体験の多くは明らかに精神的であり、ふつうは神聖な光となんらかの強烈な遭遇をしたりその中に没入したりする。この現象はカルロスのケースでは圧倒的な力を持っているし、わたしが調べてきた多くのケースにも見られる。エイリアンは侵害的活動に対する恨みを買ってはいるが、仲介者とも見なされ、わたしたちよりも神または存在の根源に近いと見なされることがある。カルロスのケースのように、天使や神に類似したものと見なされることさえある。わたしが扱ってきた多数のアブダクティーは、ある時点で宇宙の存在の根源に対して解放される体験をする。多くの場合彼らはそれを「故郷(ホーム)」と呼び、人間の姿になる途中でそこから残酷に切り離されたと感じているのである。セッション中に開放されたり故郷へ帰ると、彼らは恍惚としてすすり泣くこともある。サラのケースのように、地球で人間の意識に変化をもたらすのを助けるなんらかの使命を帯びていることに気づいていても、体をもつ形で地球に留まらなければならないことを恨むこともある。

(p563)

 

精神分析の大家カール・グスタフユングも、世界的にUFO熱が高まりつつある1950年代末に『空飛ぶ円盤』を著す。こちらはジョン・E・マックの著作とは異なり、大胆に深みに入って壮大に話を広げるのが印象的だ。ユング自身にとっても最晩年の著作で、彼の理論が遺憾なく発揮されているのは注目に値する。

 

この圧倒的な多数者の態度こそが、投影という無意識の自己主張をうながす絶好の条件なのである。つまり底にひそんだ無意識が、合理的な批判にもめげず、しかるべき幻視を伴ったシンボルの噂という形で表面にあふれだし、常に秩序と開放と治癒と全体性をもたらすものであったあの元型を、ここでもまた活躍させるのである。この元型が伝統的な形姿をとるかわりに即物的なしかも工学的な形をとったのは、神話的な人格化を嫌う現代にあってまことに象徴的といえるだろう。技術的工学的と見さえすれば、現代人に難なく受けいれられる。形而上的な裁定という流行遅れの観念も、宇宙飛行の可能性によって受けいれやすいものになる。UFOが一見無重力であるのは解しがたいことではあるが、われわれの最新の物理科学にしても、ほとんど奇跡に近いような発明をいくつとなく成し遂げている以上、知能の進んだ宇宙人が重力を超克したり、光速かそれ以上のスピードを出せるようになったとしてもなんの不思議があろうか、というわけである。

(p34-35 訳:松代洋一 ちくま学芸文庫 引用元では上記の下線部は傍点で記されている)

 

ユングはUFOを一つの元型(アーキタイプ)と捉え、現代における神話的な象徴の一つと考える。それ自体が客観的に実在するか否かは、作品を読む限りそれほど関心の的でないようだ。むしろ、UFOに関しての証言が現代になって多く挙がることの意味を捉えようとする姿勢であり、かなり読み手を選ぶところだろう。

この著作内でユングは患者の夢や絵画作品による分析をしており、UFOの目撃証言を手掛かりとしない点もかなり独特だ。こうしたアプローチは文化人類学や芸術学など、かなり広い分野の知見も必要となるし、残念ながら実証性にも乏しい。それで後続の研究は特に現れていないようだ。少し残念な気もする。

 

個人的には、宇宙人が実在するかより、UFOの存在が多くの人々の間で噂されることに興味があるため、ユングの研究は面白い。

地球外生命体の話となると、どうしても現代文明を相対化してスピリチュアルな方向に向かいがちだが、存在を完全に否定するような証拠も出揃っていないのも事実である。むしろ、広大な宇宙の中で地球だけが生命に溢れているというのは孤独な気もするので、出会わなくてもいいからどこかに存在はして欲しい気がする。

あるいは宇宙人の存在を見つける前に他の星を植民地化する可能性もあるが、どちらに転ぶか見届けたいものだ(全く別の選択肢に転ぶ可能性もあるが)。

しかし、こうした興味とアブダクションの証言への関心は自分の中では別物である。ただ一種の興味深い社会現象として、淡々と記憶すべきであるとは思う。

 

 

参考

en.wikipedia.org

honto.jp

www.chikumashobo.co.jp