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管理人:平井宏樹

マクマーティン保育園裁判(The McMartin Preschool Trial)

1984年から1990年にかけて、アメリカのカリフォルニア州で行われた刑事裁判。ただし証拠不十分として容疑者は全員無罪となり、史上最長の刑事裁判であり史上最大の冤罪事件となった。

 

事件の概略をまずは述べる。「マクマーティン」というのは起訴された園長の姓で、他に6名の保育士が性的虐待の告発を受けた。最初の告発(こちらも後ほど荒唐無稽な内容と判明)があった後、同様の被害報告が300件以上も、子どもたちを通じて相次いで上がる。当時、託児所や保育園に子どもを預ける家庭が増えていたこともあり、全米規模で保育所に対する疑念が向けられた。
後に子どもたちにカウンセリングを行ったセラピストによる誘導尋問や、検察による証拠隠滅の疑惑が判明し、最終的には全員の無罪が確定するのだが、被疑者たちが被った被害は大きく、度重なる裁判費用などにより身を滅ぼした方もいる。さらに近隣の無関係な保育所が閉園したことも考えると、被害規模は想像を絶する。何とも報われない事件である。

 

この事件の詳細を調べるため、『マクマーチン裁判の深層』(北大路書房)を読んだが、読めば読むほど何ともやるせない気持ちだ。告発の内容は、いわゆる「悪魔的儀式虐待(SRA)」と言われるもので、荒唐無稽と言われても仕方ないものだが、なぜそれが明らかになるまでにこれほどの被害者が出てしまったのか。
個人的に最も報われないと感じたのは、カウンセリングを受けた子どもたちのことである。彼ら、彼女らにとっては恐らく暗示も多分に入っているとはいえ、今ある記憶だけが頼りだ。なので、事件から30年以上経った今でも被疑者を許せないという方もいるという。
現時点では「証拠不十分」というだけで、潔白が晴れたわけではない。この事件では証拠がいくつもでっち上げられ、今後もそうしたことが無いとは限らない。一度生まれた疑惑を払拭するのは実に難しいと感じる。とはいえ、存在しない記憶を根拠に誰かを憎み続けているなら、こんなに虚しいことも無いだろう。

 

エリザベス・ロフタス(Elizabeth Loftus)氏の著書『抑圧された記憶の神話』(共同執筆:K.ケッチャム 訳:仲 真紀子 誠信書房)には次のように述べられている。

 


 科学者は、視覚システムによる空間内の事物や特徴の同定が、記憶の始まりだと考えている。知覚が生じた各々の箇所において、脳細胞は後の使用に備え、その印象を保持するよう指令を受ける。そうすると、細胞に特殊な物理的変化が起きる。また、海馬という小さな器官(脳の両側に一つずつ、計二つある)が、これらの分割された箇所をリンクし、広範な感覚を一つの体験として統合する。これが記憶として刷り込まれるのだ。特定の記憶が検索されるたびに、脳細胞間のコネクションは強化される。
 つまり、脳は点在する神経上の箇所をつなぐ、何十万もの小さな重複しあう情報「ネット」で満たされている、と考えてよいだろう。特定の記憶の糸を引き上げれば、ネット全体が持ち上がり、それを取り巻く、何重にも重なる記憶もまた攪乱を被る。さらに複雑なことに、記憶という構造物は血液、化学物質、電気など、どちらかといえば捉えどころのない、うつろいやすい結合でできている。ネットがからまり、結び目ができ、複雑に入り組んだ素材がほつれや穴で破れてしまうこともあるだろう。心は壊れたところを修繕しようと頑張るが、常に腕の立つ几帳面なお針子になれるわけではない。(p111)

 


「抑圧」(Verdrängung)という言葉はフロイト以降、心理学の重要ワードであった。恐らく最初にこの語が言われた頃は、映像が脳内にそのまま格納されているようなイメージだったろうが、どうやら見たものが見たまま、記録されているという筋はなさそうだ。映像はデータが重く、そのままの形で残すのは脳のキャパシティを考えても恐らく難しい。
だが一方で、記憶が証拠としては不確かな場合があるということも、この事件を踏まえた上でよくよく意識すべきだろう。事件の発端から最後まで一貫し証拠不十分と結論は出ても、被疑者の方々は未だに「推定無罪」の名を着せられ、他の犯人でも見つからぬ限りその撤回は難しい(犯人がいない犯罪の場合はどうすればいいのだろう)。結局証拠が全て泡のように消え、かといって疑いが晴れることもなく、繰り返すが何ともやるせない事件である。

 

 

参考

ja.wikipedia.org

en.wikipedia.org

www.kitaohji.com

www.seishinshobo.co.jp

www.famous-trials.com