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管理人:平井宏樹

聖像破壊運動(イコノクラスム)

「聖像破壊」を、

1.信徒が、自身の宗教に属する聖像を破壊する
2.特定の宗教の信徒が、異教の聖像を破壊する

に分けて考える。

現代においては2のパターンがメジャーだろうが、1のパターンも忘れてはなら
ない。

 

2のパターンで多くの人がイメージするのは、例えば2001年にタリバンによって
破壊されたバミヤン渓谷の大仏などだろう。イスラム教の偶像崇拝禁止の規定に
反するとされ、仏教に属する聖像が破壊された。この行為に関しては、国際的な
諸組織だけでなく、イスラム教の内部からも大いに批判が寄せられた。

 

イスラム教やユダヤ教偶像崇拝の禁を堅く守り、仏教やヒンドゥー教は仏像を
作ることに抵抗は少ない。かつてのギリシアやローマのように、多神教世界で聖
像はよく作られる。
このように考えていくと、キリスト教の特殊さに気付くだろう。
一神教でありながら宗教画や聖像が積極的に作られ、深く浸透している。元々多
神教世界であったヨーロッパの地に東方からの文化が入り、複雑な過程を経て広
まった、その成立が関係しているのだろうか。
導入が長くなったが、要するに1のパターンの聖像破壊はキリスト教に多いよう
なのだ。

 

「イコノクラスム」というと、基本的には8~9世紀にかつての東ヨーロッパの大
国、ビザンツ帝国で起きた現象を指す。皇帝レオ3世により出された聖像禁止令
を端緒とする。いかんせん昔の話で、被害の規模はまだ良いとして、何をきっか
けにこうしたお触れが出されたかは分からない部分も多い。お触れが撤回された後、聖像禁止擁護派の記録が攻撃され、散逸したのだ。
キリスト教圏で恐らく最も大規模に聖像が破壊されたのは、宗教革命の時代だろ
う。その時代、聖像がどのように考えられたか、宗教革命を牽引した一人、カル
ヴァンの言葉を引用する。

 


 その一方で注意しなければならないのは、聖礼典の力を弱めてその用益を空し
くする人たちがいるのと同様、反対側には、そこに何か秘密の力が加えられてい
ると言う者が立っていることである。だが、聖礼典にそのような力が神によって
挿入されたとは、どこにも読むことができない。このような誤った教えによって
、無学で無知な人たちは、神の賜物を決して発見できないところに尋ね求めよと
教えられて、危険な欺きに遭い、知らず知らず神から引き離され、ついに神の真
理の変わりに紛いなき虚妄を抱くに至った。(中略)しかし信仰なしで受け取ら
れるサクラメントは、教会にとっての最も確かな破滅でなくて何であろう。約束
のないところには期待すべき何ものもなく、約束があるところには、信仰者に恵
みを掲示するに劣らず不信仰者を怒りによって怯えさせるから、神の言葉によっ
て差し出されたものを真の信仰をもって受け入れる以上の何ものかが聖礼典によ
って自分に渡されたと思う者は、間違っている。
(『キリスト教綱要改訳版 第4編』ジャン・カルヴァン=著 渡辺信夫=訳 
新教出版社、2009 p312-313)

 


ここでは聖礼典に関して述べているが、あくまで聖書の言葉を重視し、その他儀
式めいたものはそれに準ずるものと扱うべき、との姿勢が表れている。
旧約聖書には、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
」(出エジプト記:20-3)「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならな
い。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの
、どんな形をも造ってはならない。」(出エジプト記:20-4)とある。ユダヤ教
イスラム教はこうした教えを強く守っているのだ。
先ほども述べたが、キリスト教の根底にはギリシア・ローマの多神教文化があり、聖像を造る文化についても元は寛容であった。多神教一神教の緊張関係に意識を向けつつキリスト教史を眺めてみるのは、興味深い視点かもしれない。

 

日本は多神教のカラーが強く、偶像崇拝の禁については理解しにくい部分も多い。ユダヤ教の経典『タルムード』においては、性道徳の比喩を用いて旧約聖書を説明しており、たしかに性の文脈においてなら現代の日本でもその意味合いが把握しやすいだろう。たとえば、対象そのものでなく付属物に執着するというと、一種の性的フェティシズムがそれに該当するが、その性嗜好に対する是非は人により大いに分かれるだろう。

 

 

参考

 

ja.wikipedia.org

www.y-history.net

honto.jp

www.h-up.com

ja.wikipedia.org