何かが道をやってくる

管理人:平井宏樹

『雪風』(曲)

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日本のバンド、スピッツの曲。2016年発表の15枚目のオリジナルアルバム『醒めない』に収録。同バンド40枚目のシングル曲(こちらはアルバムの前年に発売)でもある。

 

正直、最初聴いたときからどことなく死に近い匂いを感じたが、テレビ東京のドラマ『不便な便利屋』のエンディングテーマで、雪景色を歌い上げた純粋な曲の可能性もある。ただ、バンド自身が歌詞の意味について深く語るタイプではないため、本当のところはわからない。

以下、歌詞に関しての個人的な解釈を述べるが、あくまで文字通り一つの「解釈」として受け取っていただければありがたい。

 

歌い手はすでに亡くなっており、生前の恋人に対して励ましを送る。

「割れたかけらと同じものを 遠い街まで探しにいったね」という歌詞は、絶対に届かないと分かっている理想を二人で求めたということだ。くだらないといえばそれまでだが、それだけ深い仲にあったのだろう。

もう歌い手は亡くなっているため二人は会えないが、夢か、あるいは雪原の幻想的な風景の中で出会う。歌を送られる生者は恐らく、何か根本から打ちひしがれる悲しい体験をしたのだろうか。

「敗北」と言うように、少なくとも日本人は悲しい時に北へ、つまり寒いところへ向かう習性があるようだ。たとえば濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』にも、そう感じさせる描写があった。陽気さから離れて冷静に物事を見極めたいときは、寒いくらいの方がいいのかもしれない。

 

死者の目線を描いた作品には、折口信夫の『死者の書』がある。

生前の記憶を忘れた語り手が糸を手繰るように話すため、全貌を掴むのは難しい。しかしそれが同時にリアリティという節もある。無論、生者が死者の目線を再現するのは夢のまた夢で、簡単に手は届かない。その感触を味わうならオススメの作品だ。

一方で、映画『ゴースト/ニューヨークの幻』(原題:"Ghost")のように、死者の目線を書きながら、バランスの良いエンタメに仕上げた面白い作品もある。ロマンスもコメディーもホラーもあり、満足度の高い作品だ。リアルなら良いというわけではないのだ。

 

ここまで、さも『雪風』が死者の目線を描いているように述べたが、冒頭に書いたとおり全て的外れという可能性もある。

ここまで詩的な含みを持ちながら、気軽にも聴ける曲にできるのは強い。スピッツならどの曲もそうした魅力があるが、『青い車』『ラズベリー』『海とピンク』あたりの歌詞は危なさも含んでて特に面白い。

 

 

参考

 

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『ブライトン街道にて』(原題:"On The Brighton Road")

イギリスの作家、リチャード・ミドルトン(Richard Middleton 1882-1911)に
よる短編。原題は"On The Brighton Road"で、題訳は『幽霊船(魔法の本棚)』(訳:南條 竹則 国書刊行会)に拠る。ミドルトンの作品をまとめて読めるのは日本語では多分この短編集だけだ。

ブライトンからロンドンへ向かう道にて、男が雪の中からガバッと現れる。その男が道中で出会った少年とやりとりを交わすだけだが、独特な印象を残す作品だ。

 

とりあえず書き出しが素晴らしいので、少し長いが引用する。

 

 ゆっくりと太陽は凍てついた白い丘の上にのぼり、暁の神秘な儀式もそこそこに夜明けが来れば、あたりは輝く銀世界だった。夜中堅い霜が降りたので、生活の厳しさに追われる小鳥たちがそこここを跳びまわっていたが、銀色の舗道には足跡も残らなかった。ところどころにぽっかりと空いた生垣の穴が、色とりどりの地上を被(おお)った白一色の単調さを破り、頭上の空はオレンジ色から濃い青に、濃い青から薄いうすい水色に変わって、無限の空間というよりも、むしろ薄べったい紙のスクリーンを思わせた。平野を越えて吹きつける冷たく音もない風は、樹々に積もったきめ細やかな雪埃を舞いあげるものの、雪を冠った生垣はほとんど震えることもなかった。ひとたび地平線の上にのぼると、太陽は進みを速めたかに見え、空にのぼるにつれて放ち始めた熱が、身を切るような風の冷たさと混じり合った。(訳:南條 竹則)

 

夜明けの雪原をここまで雄大に描けるのはすごい。雪風の冷たさや静けさもダイレクトに伝わるようだ。
この雪景色で一人目を覚ます男、という風景の対比がストーリー全体によく効いている。男は死んでいるのでは、と思うのはこの冒頭による効果もあるだろう。

 

この作品は大学の講義で知った。ナボコフの『ロリータ』などを訳されている若島正先生の講義だ。いろんな短編小説を英語で読むという内容で、他にはサキやコッパードなどが取り上げられていた。なぜかラテンアメリカや日本の作品も混じっていたが、とりあえずお気に入りの作品を取り上げたのだろう。
授業後にいくつか的外れな質問をし、いたく困らせてしまったのだが、その際この『幽霊船』という短編集を薦められた。8年越し位でつい最近読み、大変面白かった。

 

男と少年は、とりあえずブライトン街道で大都市ロンドンへ向かう。都会に出たからといって救いがあると限らないのは集団就職の例からも明らかだ。他の作品でいえば、スタインベックの『怒りのぶどう』もそんな話だ。個人的には、ちょっと趣旨はずれるがダンセイニ卿の『バブルクンドの崩壊』も思い出す。
今ではネットやテレビで現地の情報はすぐにわかるが、メディアが無い頃はもうとりあえず向かうしかなかったのだろう。今でも情報を遮断している組織や土地は多くあるが、情報を得たいならその時はそこに向かうしかない。『ウォッチドッグス』というゲームではそうした世界が描かれているが、実際はオンライン上で済ますことが多いらしい(下記にある動画を参照)。

 

男の生死もわからないまま、まるで死体や魂そのものが歩いて話しているような、不気味な雰囲気漂う作品だ。町に挟まれた街道という、中途半端な舞台設定もいい。
にしても、雪は何かと死を連想させる。ジェイムス・ジョイスの作品『死せるものたち』(原題:"The Dead" 題訳は柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』から)も、ラストの雪景色の描写が印象的だった。"The Dead"に関しては、ジョン・ヒューストン監督の映画も大変良かった。

 

 

参考

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屈葬

葬儀形態の一種。遺体の足を折り曲げた状態で埋葬を行うこと。

 

日本だと妙にメジャーな単語で、中学生でも知っているだろう。恐らく日本史を学ぶにあたり、かなり最初に知る言葉なのも関係しているかもしれない。

英語だとcrouched burialやflexed burialといった単語が当てられるようだが、調べてもあまり詳しい記事は出てこない。西洋では文明の早くから伸展葬が採られたため、屈葬という文化にあまり馴染みがないのだろう。

ただ、ネアンデルタール人は屈葬を行っていたようだ。

 

屈葬が行われた理由は諸説ある。

シンプルに埋葬スペースを省くため、という身も蓋もない説もあれば、母親の胎内をイメージしているという説もある。石を抱いている遺体(抱石葬といわれる)もあるため、「死者が蘇らないように」と念を込めたとの説もある。

文献が残ってないため答えは藪の中なのだが、やはり屈葬は窮屈な気がする。

山岸涼子の『雨女』という作品に、袋に詰められた正座の遺体が出てくるのだが、それを連想してしまう。

 

少なくとも、生者が死者に権威を振るえた時代があったのだろう。

日本においては、渡来人の到来と、身分社会の発展と共に屈葬は廃れていったようだ。

文明の発展とともに、死者からの目線を獲得したのか。「自分が埋葬されるとしたら」と、そんな想像が働いたのか、伸展葬が増えていく。

 

遺体は徐々に飾られるようになり、一種の権威を持ち始める。

縄文人ネアンデルタール人は遺体に対して恐れを抱いたのだろうか。現代人には想像できないくらい、「モノ」に近いと思われていた気がするのだが…。

 

 

参考

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『らくだ』(落語)

古典落語の演目の一つ。作者は上方の落語家、4代目桂文吾(1865-1915)。

 

とある長屋に住んでいた「らくだ」というあだ名の男が、フグを食って死んでしまう。
兄貴分の「熊五郎」というあだ名の男がやってきて、彼の葬儀を執り行うため、彼にゆかりのある人物から香典や通夜用の食事を集めようとする。
たまたま通りかかった屑屋を使って様々な人のもとを巡るが、「らくだ」は借金を踏み倒したり愛想が良くなかったりで大変評判が悪く、誰も手を貸そうとはしない。
そこで、熊五郎は手を貸さなければ死人の「かんかん踊り」(当時流行していた舞踊)を見せると脅し、「らくだ」の遺体を引っ張ってくることで、まんまと酒や棺桶を集める。

 

この話を知ったのは中学生の頃、「何か打ち込めるものがほしい」となぜか遮二無二にお笑いについて調べてた時だ。その頃は、まだ本当に好きなものを他に思いつかなかったのだ。『らくだ』はあるウェブサイトで全文を読み、その後6代目松鶴(1918-1986)の録音を聴いた。

「しぶとのかんかんおどり」のせいで、その頃に知った落語の中でもやたら特異な印象を受けた。

 

演目の趣旨は、死人の権威を盾にしたタチの悪い脅迫である。

他にも後ろ暗い部分はあるが、「らくだ」自身のキャラクターや、フグ毒による死のあっけなさなどがあり、ギリギリで笑い話といえる。「らくだ」という人物にフォーカスを当てて細かい描写を加えると、胸糞悪い話になりそうだ。

 

ラクダが日本で知られたのは、元号でいえば文政(1818-1830)の頃だ。シーボルトが活躍し、西郷隆盛大久保利通明治維新の立役者が誕生した。ちなみに「かんかん踊り」の方も、この頃流行っていたそうだ。

オランダとの国交を通じ、色んな珍獣が紹介されたが、ラクダは中でも驚かれたそうだ。背中のコブも、温暖湿潤な日本では不要な長物に映っただろう。

この獣の奇怪な印象が、『らくだ』に良い効果をもたらしている。この作品の何がいいって、やはりタイトルがいいのだ。たとえば「タヌキ」のような、ちょっと身近な生物になると、「らくだ」に情が移ってしまう。

そのあたり、イヨネスコの『犀』と似た妙を感じる。

 

参考

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『ハリーの災難』(原題:”The Trouble with Harry”)

1955年公開の、アルフレッド・ヒッチコック監督による映画作品。

 

「ハリー」は中心人物なのだが、映画の最初から最後まで死んでいる。遺体が主人公の作品である。

村の一角で少年が遺体を目撃するところから物語は始まり、彼を殺した心あたりのある人々が、遺体を埋めたり掘り返したりを繰り返す。まさしく死体遊びである。

彼を取り巻く人間関係が主題なのだが、いかんせん遺体が中心にあるため、業の深さからはどうやっても逃れられない。ヒッチコック映画ではだいたい人が死ぬことになるが、その中でも指折りのブラックユーモアだ。

 

この映画を観たきっかけは、シャーリー・マクレーンだった。

学生時代、ベタだが『アパートの鍵貸します』と『あなただけ今晩は』のビリー・ワイルダー作品で知り、当時のハリウッド女優には珍しい主張の強くない顔立ちや明るいキャラクターが気に入ったため、他にも出演作を観たいと思った。『ハリーの災難』が映画女優としてのデビュー作らしい。

80年代頃からは転生論や自身の神秘体験にまつわる書物を執筆しており、日本でもスピリチュアル界隈では評判のようだ。当時はそんな事全然知らなかったが。

 

作品の話に戻る。

タイトルにある「災難」は、死者の特権である「永遠の安らかな眠り」を妨げられたことを指すのだろう。

日本の怪談では、先祖の墓参りを欠かした子孫に霊障が起こるパターンは多い。欧米圏では珍しい気がする。

ハリーは最後まで弔いを受けず、結局最初の発見場所に戻される。日本は比較的弔いを重視する傾向があり、その視点からすると大変罪深いことだが、観ているときはあまり気にならなかった。遺体が不自然なほど整っているからだろうか。

とはいえ弔いは万国共通の文化であるため、死者への敬意と人間のエゴとの衝突がこの作品の気色悪さないしユーモアに繋がっていることは確かだろう。

 

参考

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死んだふり

学術用語では「擬死」という。

動物が死んだふりをするのは相手の注目を避けるためだが、人間社会における擬死はむしろ注目を集める手段である。

注目を集めるために死を使う生き物は他にいるだろうか。死臭を放つラフレシアくらいしか思いつかない。

 

「死人に口なし」と言われるが、「死」そのものは重大な説得力をもつ。

人間社会は死を嫌うのが定石で、弔いの文化が人類史上最古にある点もうなづける。遺体を見ると、何かしなくてはならないと思うのがヒトの性なのだろう。

 

"Planking"というトレンドが海外にかつてあったそうだ。

死んだふりをして自撮りをするのだが、いくらかレギュレーションがある。

・うつぶせの姿勢であること。

・両手は体側にぴったりつけること。

・荒唐無稽な場所で横たわるほど良しとする。

死んだふりではあるのだが、実際に死んでいると思われないための工夫であると思われる。事件に繋がったこともあるそうで、色々あって今は下火のトレンドだ。

死体としてのリアリティを欠くため、説得力は全くない。「変なことをしてるなあ」と横目で見られる程度だろう。

なので逆に、無意味なものにいかに意味をもたせるか、それが面白くてトレンドになったのだろう。ひっくり返って注目を集める手段になっているのが興味深い。

 

死んだふりでの主張といえば、「ダイ・イン(Die-In)」という抗議形式もある。集団での死んだふりである。

形式として確立したのは1970年代とのことだが、「非暴力的な抗議」という点では歴史に前例が多くある。

こちらも、赤い液体で身を染めたりと死体としてのディテールにこだわった時期もあったそうだが、基本的にはプラカードを持って横たわるだけである。こちらもいわゆる「死体ごっこ」で、死のインパクトを欠いている。どちらかといえば、大人数が同じTシャツを着るような視覚的効果に近いだろう。

 

リアルな死体はインパクトが強すぎて、社会的には嫌われるのが実際だ。死の印象を軽減することが、死んだふりの作法である。

 

参考

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闘争・逃走反応(fight-or-flight response)

動物が脅威に晒されたとき、アドレナリンやノルアドレナリンなどのホルモンによって身体・心理的に起こる反応。

 

「闘争」「逃走」の掛け言葉になっており、学術用語と思えぬユーモアにまずは驚く。変わった翻訳をしたものだなあとずっと思っていたのだが、翻訳元となった英語(fight-or-flight response)からすでに掛け言葉になっていたようだ。

ただ、この単語そのものがふさわしくないと少し問題になっているようだ。実際に脅威にさらされた時、動物が見せる反応は「闘争」や「逃走」に限らないため、「急性ストレス反応(acute stress response)」などと言い換えるべきという議論がある。言い換えるのも結構だが、韻が踏めないのは少し残念だ。なぜ正確さにこだわると、リズムが悪くなるのだろう。

 

その一方で、「火事場の馬鹿力」と訳されることもあるそうだ。

Wikipediaにて「火事場の馬鹿力(Hysterical strength)」のページを見てみると、窮地に立たされて馬鹿力を発揮した人々のエピソードが記されている。

物足りないのが、他人を守るために力を発揮したらそのエピソードは残るのだが、自分自身のために発揮しても、エピソードにならないことである。自分で自分を助けたところで誰も表彰はしないだろうから、仕方のないことであるのだが。

でも実際に知りたいのは、いざ自分が窮地に立たされて生き延びることができるかどうかだ。クマと戦って勝った人の話など、もう少し聞ければいいのだが(このページには一応、ホッキョクグマから子どもを守った女性のエピソードも書かれてはいる)。

 

実生活を考えてみると、死に瀕する経験が少ないため、いざ危険に瀕しても逃げることに頭を使って、戦おうなどとは思わないだろう。キューブラー・ロス提唱の「死の受容への五段階」でも、怒りの前には否認がある。地獄の果てまで逃げおおせ、崖っぷちまで追い込まれないと「馬鹿力」は多分出せない。でも、いざとなったら自分はやるんだぞ、と思うことが救いになることもあるのだろう。

 

参考

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