何かが道をやってくる

管理人:平井宏樹

『らくだ』(落語)

古典落語の演目の一つ。作者は上方の落語家、4代目桂文吾(1865-1915)。

 

とある長屋に住んでいた「らくだ」というあだ名の男が、フグを食って死んでしまう。
兄貴分の「熊五郎」というあだ名の男がやってきて、彼の葬儀を執り行うため、彼にゆかりのある人物から香典や通夜用の食事を集めようとする。
たまたま通りかかった屑屋を使って様々な人のもとを巡るが、「らくだ」は借金を踏み倒したり愛想が良くなかったりで大変評判が悪く、誰も手を貸そうとはしない。
そこで、熊五郎は手を貸さなければ死人の「かんかん踊り」(当時流行していた舞踊)を見せると脅し、「らくだ」の遺体を引っ張ってくることで、まんまと酒や棺桶を集める。

 

この話を知ったのは中学生の頃、「何か打ち込めるものがほしい」となぜか遮二無二にお笑いについて調べてた時だ。その頃は、まだ本当に好きなものを他に思いつかなかったのだ。『らくだ』はあるウェブサイトで全文を読み、その後6代目松鶴(1918-1986)の録音を聴いた。

「しぶとのかんかんおどり」のせいで、その頃に知った落語の中でもやたら特異な印象を受けた。

 

演目の趣旨は、死人の権威を盾にしたタチの悪い脅迫である。

他にも後ろ暗い部分はあるが、「らくだ」自身のキャラクターや、フグ毒による死のあっけなさなどがあり、ギリギリで笑い話といえる。「らくだ」という人物にフォーカスを当てて細かい描写を加えると、胸糞悪い話になりそうだ。

 

ラクダが日本で知られたのは、元号でいえば文政(1818-1830)の頃だ。シーボルトが活躍し、西郷隆盛大久保利通明治維新の立役者が誕生した。ちなみに「かんかん踊り」の方も、この頃流行っていたそうだ。

オランダとの国交を通じ、色んな珍獣が紹介されたが、ラクダは中でも驚かれたそうだ。背中のコブも、温暖湿潤な日本では不要な長物に映っただろう。

この獣の奇怪な印象が、『らくだ』に良い効果をもたらしている。この作品の何がいいって、やはりタイトルがいいのだ。たとえば「タヌキ」のような、ちょっと身近な生物になると、「らくだ」に情が移ってしまう。

そのあたり、イヨネスコの『犀』と似た妙を感じる。

 

参考

ja.wikipedia.org

www.web-nihongo.com

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『ハリーの災難』(原題:”The Trouble with Harry”)

1955年公開の、アルフレッド・ヒッチコック監督による映画作品。

 

「ハリー」は中心人物なのだが、映画の最初から最後まで死んでいる。遺体が主人公の作品である。

村の一角で少年が遺体を目撃するところから物語は始まり、彼を殺した心あたりのある人々が、遺体を埋めたり掘り返したりを繰り返す。まさしく死体遊びである。

彼を取り巻く人間関係が主題なのだが、いかんせん遺体が中心にあるため、業の深さからはどうやっても逃れられない。ヒッチコック映画ではだいたい人が死ぬことになるが、その中でも指折りのブラックユーモアだ。

 

この映画を観たきっかけは、シャーリー・マクレーンだった。

学生時代、ベタだが『アパートの鍵貸します』と『あなただけ今晩は』のビリー・ワイルダー作品で知り、当時のハリウッド女優には珍しい主張の強くない顔立ちや明るいキャラクターが気に入ったため、他にも出演作を観たいと思った。『ハリーの災難』が映画女優としてのデビュー作らしい。

80年代頃からは転生論や自身の神秘体験にまつわる書物を執筆しており、日本でもスピリチュアル界隈では評判のようだ。当時はそんな事全然知らなかったが。

 

作品の話に戻る。

タイトルにある「災難」は、死者の特権である「永遠の安らかな眠り」を妨げられたことを指すのだろう。

日本の怪談では、先祖の墓参りを欠かした子孫に霊障が起こるパターンは多い。欧米圏では珍しい気がする。

ハリーは最後まで弔いを受けず、結局最初の発見場所に戻される。日本は比較的弔いを重視する傾向があり、その視点からすると大変罪深いことだが、観ているときはあまり気にならなかった。遺体が不自然なほど整っているからだろうか。

とはいえ弔いは万国共通の文化であるため、死者への敬意と人間のエゴとの衝突がこの作品の気色悪さないしユーモアに繋がっていることは確かだろう。

 

参考

ja.wikipedia.org

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死んだふり

学術用語では「擬死」という。

動物が死んだふりをするのは相手の注目を避けるためだが、人間社会における擬死はむしろ注目を集める手段である。

注目を集めるために死を使う生き物は他にいるだろうか。死臭を放つラフレシアくらいしか思いつかない。

 

「死人に口なし」と言われるが、「死」そのものは重大な説得力をもつ。

人間社会は死を嫌うのが定石で、弔いの文化が人類史上最古にある点もうなづける。遺体を見ると、何かしなくてはならないと思うのがヒトの性なのだろう。

 

"Planking"というトレンドが海外にかつてあったそうだ。

死んだふりをして自撮りをするのだが、いくらかレギュレーションがある。

・うつぶせの姿勢であること。

・両手は体側にぴったりつけること。

・荒唐無稽な場所で横たわるほど良しとする。

死んだふりではあるのだが、実際に死んでいると思われないための工夫であると思われる。事件に繋がったこともあるそうで、色々あって今は下火のトレンドだ。

死体としてのリアリティを欠くため、説得力は全くない。「変なことをしてるなあ」と横目で見られる程度だろう。

なので逆に、無意味なものにいかに意味をもたせるか、それが面白くてトレンドになったのだろう。ひっくり返って注目を集める手段になっているのが興味深い。

 

死んだふりでの主張といえば、「ダイ・イン(Die-In)」という抗議形式もある。集団での死んだふりである。

形式として確立したのは1970年代とのことだが、「非暴力的な抗議」という点では歴史に前例が多くある。

こちらも、赤い液体で身を染めたりと死体としてのディテールにこだわった時期もあったそうだが、基本的にはプラカードを持って横たわるだけである。こちらもいわゆる「死体ごっこ」で、死のインパクトを欠いている。どちらかといえば、大人数が同じTシャツを着るような視覚的効果に近いだろう。

 

リアルな死体はインパクトが強すぎて、社会的には嫌われるのが実際だ。死の印象を軽減することが、死んだふりの作法である。

 

参考

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activehistory.ca

 

闘争・逃走反応(fight-or-flight response)

動物が脅威に晒されたとき、アドレナリンやノルアドレナリンなどのホルモンによって身体・心理的に起こる反応。

 

「闘争」「逃走」の掛け言葉になっており、学術用語と思えぬユーモアにまずは驚く。変わった翻訳をしたものだなあとずっと思っていたのだが、翻訳元となった英語(fight-or-flight response)からすでに掛け言葉になっていたようだ。

ただ、この単語そのものがふさわしくないと少し問題になっているようだ。実際に脅威にさらされた時、動物が見せる反応は「闘争」や「逃走」に限らないため、「急性ストレス反応(acute stress response)」などと言い換えるべきという議論がある。言い換えるのも結構だが、韻が踏めないのは少し残念だ。なぜ正確さにこだわると、リズムが悪くなるのだろう。

 

その一方で、「火事場の馬鹿力」と訳されることもあるそうだ。

Wikipediaにて「火事場の馬鹿力(Hysterical strength)」のページを見てみると、窮地に立たされて馬鹿力を発揮した人々のエピソードが記されている。

物足りないのが、他人を守るために力を発揮したらそのエピソードは残るのだが、自分自身のために発揮しても、エピソードにならないことである。自分で自分を助けたところで誰も表彰はしないだろうから、仕方のないことであるのだが。

でも実際に知りたいのは、いざ自分が窮地に立たされて生き延びることができるかどうかだ。クマと戦って勝った人の話など、もう少し聞ければいいのだが(このページには一応、ホッキョクグマから子どもを守った女性のエピソードも書かれてはいる)。

 

実生活を考えてみると、死に瀕する経験が少ないため、いざ危険に瀕しても逃げることに頭を使って、戦おうなどとは思わないだろう。キューブラー・ロス提唱の「死の受容への五段階」でも、怒りの前には否認がある。地獄の果てまで逃げおおせ、崖っぷちまで追い込まれないと「馬鹿力」は多分出せない。でも、いざとなったら自分はやるんだぞ、と思うことが救いになることもあるのだろう。

 

参考

ja.wikipedia.org

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『ゾッとしたくて旅に出た若者の話』

グリム童話の物語のひとつ。

色んなバリエーションがあるようだが、タイトルなどは池内紀訳の『グリム童話』(ちくま文庫)のものを引用。

 

のらくらの次男坊が、「ゾッとする」とはどういうことかを知るために旅に出る。旅先で、三日間番をすれば財宝や美しい姫君が得られるという城があり、「ゾッとする」ことを学ぶついでに番をしてみる。巨大な猫が出てきたり、幽霊が髑髏で玉突きをしたり、大男たちが棺桶を運んできたりと、色んな大仕掛けがあるのだが、この若者には通用せず、結局「ゾッとする」体験は得られないまま、城の財宝を手にして、姫君と結婚し若い君主となる。

それでもゾッとしたい若者に、城の女中が一計を案じ、川で汲んできたバケツの水を寝ている若者にぶっかけて、最後は彼の「いやあ、ゾッとした」みたいな言葉で終わる。

 

現代ドイツ語でいえばだが、「ゾッとする」(schaudern)には「身震いする」という意味もあるそうで、つまり最後は「水をかけられて身震いした」という言葉遊びのオチと思われる。ふざけてるが、よく出来てると思う。

物語のはじめでは家族に愛されぬノラクラ坊やだが、一度出世してしまうとちょっと妬ましくなってくる。そこで女中が「水でもかぶって反省しなさい」と一発くらわせることで、バランスを上手くとっている。最後までスカッとした気分で楽しめる話だ。

 

ところで、「恐怖を感じない」ということが実際にあるのだろうか?と気になって少し調べてみた。

恐怖を感じない場合、脳の扁桃体が機能していない可能性がある。同時に記憶や集中力の低下も引き起こすため、件の話の主人公がノラクラ呼ばわりされていたのと偶然だろうが一致する。

ただ、過剰に稼動するとそれはそれでてんかん症状を引き起こすため、動けばいいというものではないらしい。

 

色々と調べてみると、治療の一環で扁桃体を切除した方が実際にいるらしい。

 

www.vice.com

 

危機を回避するために恐怖を感じるのは必須だが、現代では生命をおびやかすほどの危機に襲われることは少ない。よって、案外生きていけるそうだ。

上の記事にも書かれているが、理性的に恐怖を回避する必要があるため、そのあたりが少し面倒なようだ。パニックに襲われることはないので、その点はある意味有利かもしれない。

ただ、恐怖に基づく娯楽というのは結構多い気もするので、それが愉しめなくなるとしたら少し寂しい気もするが。

 

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「須磨海岸にて」

2chの怖い話で、お気に入りを挙げよと言われて、真っ先に思いつくのがこの話。

 

『須磨海岸にて』|洒落怖名作まとめ【怖い話・都市伝説 - 長編】 | 怪談ストーリーズ

 

上のリンクから確認していただければと思うが、とにかく途中からよくわからない。話の冒頭から誤字も多いし、異様な雰囲気が漂っている。

ネット掲示板で語られる長編小説ではよくあるのだが、最後まで書き手のモチベが続かず、露骨に展開が雑になってしまうことがある。その点をうるさく言う人も多いが、個人的にそういう話は好みだ。

見たものを見たまま、写実的に表現するのは意外とできる人が多いが、イメージが湧かぬ程わけのわからん話というのは実は結構珍しい。ただヘタクソというだけなら、割と転がっているのだが…。

この話も終盤になってかなり妙な展開になるので書き手の息切れを疑うのだが、にしても異様さが勝っているので「どっちなんだろう」と判別がつかない。

 

文芸批評の専門用語に、「信頼できない語り手」というのがある。

たとえば推理小説などで、事件の全容を見ていない人物の証言などが挙げられる。部分的な証言を集めて、最終的に全容が語られた時点で謎も全て解決しました、というのが一応お決まりの、推理小説の雛形とされる。もちろん例外は山ほどある。

科学用語とは異なり、定義がとても曖昧なため、「須磨海岸にて」の語り手がこれに当たるか、意見は割れることだろう。個人的にはできれば当てはめたくない気がする。書き手の体験が実体験ではない可能性があるというだけでレッテルを貼ってしまっては、何でもアリになってしまって、「信頼できない語り手」という批評の道具がつまらなく見えてしまうから、という自分勝手な理由からだが。この話にはもっと、ふさわしい二つ名がある気がするのだ。

 

書き手はこの体験を「実体験」と述べてはいるが、調べた限り、その保証は得られなかった。それでも、全体に漂う狂気から、「少なくとも彼にはそう見えたかもしれない」と、その点だけは受け入れてもいいかと、そんな気分にさせられてしまう。

この話が気にいった人は、たぶん『聊斎志異』なども好きかもしれない。中国の古典怪談集だが、不思議な話がいっぱい載っている。

 

参考

ja.wikipedia.org

 

聊斎志異〈上〉 (岩波文庫)

https://www.amazon.co.jp/%E8%81%8A%E6%96%8E%E5%BF%97%E7%95%B0%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%92%B2-%E6%9D%BE%E9%BD%A2/dp/4003204018

ジョン・タイター(John Titor)

アメリカ生まれのタイムトラベラー。2000年頃にアメリカの掲示板に現れたそうで、自身は98年生まれと名乗り、2036年の未来から、主にアメリカにまつわる様々な予言を残した。

 

この人物の噂は、残念ながら日本ではそれほど市民権を得られなかった。ノストラダムス2000年問題の噂が持ち上げられた当時が異常だっただけかもしれぬが。

流行らなかった理由としては、第一に終末論ブームを経験しすぎて息切れしてしまったのがあるだろう。あとは、シンプルに予言の内容がアメリカ寄りで、日本人の共感を得られなかったのもありそうだ。

また、個人的な見解として、この人物のような設定マシマシの人物というのは、日本だとポピュラーな人気を得られないような気がする。ノストラダムスの大予言のようなある種の仰々しさも、人気獲得の条件なのではないか。

あとは、世相が暗い時にこういう類が流行りやすいという傾向がある。『ノストラダムスの大予言』(五島勉・著)が売れたのは、オイルショックが起きた1973年だ。21世紀初頭の日本は、世相は暗くなかった気がする。子どもの頃のかすかな記憶だが、終末論自体あまり聞かなかった。

 

しかし、さらに時代が下って2010年代になると、『STEINS;GATE』シリーズにて大活躍したこともあり、知名度は少し上がった。ポピュラーな存在にはまだ程遠いが・・・。

今後も、ふとしたきっかけで知名度が上がったり、また忘れられたりを日本では繰り返していくのかもしれない。

 

最後に、掲示板由来の人物とのことだが、日本だと説明不足でよくわからない方がチヤホヤされる気がする。2chに登場したという「幽霊だけど何か質問ある?」などは、逆に海外では流行らなそうだ。

 

参考

ja.wikipedia.org

bokuweb.com